城名 黒井城(別名:保月城、保築城)
住所 〒669-4141
兵庫県丹波市春日町黒井
入場時間
入場料
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 連郭式山城
天守構造 不明
築城主 赤松貞範
築城年 建武年間年(1334-1338)
主な改修者 赤井直正、斎藤利三、掘尾吉晴
主な城主 赤松氏、荻野氏、赤井直正、斎藤利三、掘尾吉晴、川勝秀氏
位置 北緯35度10分45.0秒
東経135度6分14.6秒
【歴史】
黒井城は、室町末期頃に播州地域で勢力を誇った赤松氏の一族である赤松貞範が、建武年間に標高356mの猪ノ口山の山頂に砦を建てたことに始まる。

その後の経緯は不明だが赤松氏と対立していた荻野氏が城主となり、人質として取っていた赤井直正に、年賀の挨拶のときに害され、直正が城を乗っ取ったようです。その後城方の反抗はないため予め計画されたものだったようです。城を乗っ取った赤井直正は、自らを「悪右衛門直正」と名乗り戦国武将として名を挙げていき周囲からは“丹波の赤鬼”と怖れられました。赤井直正が城主となると、城域は尾根沿いに広がる複数の曲輪を持つ壮大な山城に改修された。

織田信長の丹波攻略の際には明智光秀の2度にわたる攻撃に最後まで抵抗し撃退した。しかし、直正没後、天正7年(1579)光秀に再度攻められ落城。光秀の重臣、斎藤利三が麓の居館である下屋敷(現在の興禅寺)に入った。この下屋敷にて後の春日局となる娘を産んだと言われている。

本能寺の変で織田信長を討ち取った明智光秀であったが、逆に山崎の戦いで敗れると明智光秀の勢力は完全に丹波国から駆逐されてしまう。その後、黒井城に入城したのは羽柴秀吉の家臣であった堀尾吉晴であったが、天正12年(1584年)羽柴秀吉と徳川家康の間で小牧・長久手の戦いが起きると、赤井直正の弟赤井時直が黒井城と余田城(市島町)で徳川家康に通じ立て篭もったが失敗。関ヶ原の戦いの後、川勝秀氏が城主となるがその後廃城となった。

山頂の主郭は東西約170m、南北40mに、東郭、三の丸、本丸、二の丸、西郭を連郭式に並べ、南面には3〜4mの野積みの石垣を築造。周囲約9kmに及ぶ山系のいたるところに、出丸、太鼓の段、石踏の段と呼ばれる多数の郭群を配置。山頂から延びる尾根の先端には北方に千丈寺砦、東方に竜ヶ鼻砦と百間馬場、南方には的場砦を配しており、全山を要塞化したことがよくわかる。中世戦国時代の典型的な山城遺構であり、織豊期の歴史を理解するうえで貴重な遺跡であることから、平成元年(1989)に国の史跡に指定された。
(参考資料:「国指定史跡ガイド」、「日本の城がわかる事典」、「Wikipedia」)

【感想】
黒井駅からも見える猪ノ口山、頂上部が平坦になっているので城址ということがわかります。
城址に近づくにつれ中腹の朱塗りの山門、石垣などが見えてきます。興禅寺近くには2つの登城口があるがゆるやかコースを進みました。ゆるやかコースといってもところどころは急峻な場所もあるのでなかなか大変です。頂上部まで登れば連続する曲輪に石垣も残り素晴らしい城跡です。中でも二ノ丸と本丸の間の堀切には破城の跡がはっきりと残っているのが印象的でした。
帰路は正直来た道をもどっ見ていない太鼓の段などを見て回った方が良い。北出丸から下に降りると目印もなくなるので注意が必要です。

 
100名城
スタンプ
スタンプ
設置場所
春日住民センタ―
登城日 一回目:2016年3月21日(月)
二回目:2018年11月11日((日)
LINK 丹波流のほほんぶらり旅-黒井城跡-
黒井城-Wikipaedia-
城主家紋 【丸に結び雁金】
(清和源氏満快流)
赤井氏家紋
【撫 子】
(藤原氏利仁流)
美濃斎藤氏家紋

                      

 探訪

※麓の案内板「黒井城登山道」より
【黒井駅前の黒井城モニュメント】 【黒井駅前のお福(春日局)像】 【黒井城全景】
頂上部分が平坦になっていて城址があることが見てわかります。
【興禅寺(下屋敷跡)】 【興禅寺山門】 【興禅寺(下屋敷跡)】
【興禅寺・本堂】 【興禅寺・お福(春日局)腰掛石】 【興禅寺・お福(春日局)産湯の井戸】
【黒井城址碑】 【急坂コースの登城口】 【ゆるやかコースの登城口】
【獣柵】
開けたら必ず閉めましょう。
【登城道】
これでゆるやかコースなんです。
【登城道】
【登城道】 【石踏の段跡】 【石踏の段跡】
【朱塗りの山門】
山門は、町の整備開発にともなって破却されるのを防ぐ為、麓から石踏の段に移築したもの。
【朱塗りの山門】 【故黒井邑主赤井公招魂碑】
【登城道本丸まで200m地点】 【城址上部の獣柵】
城址の遺構もこれで守ってくれているのですね。
【登城道本丸まで100m地点】
直進すると多田方面へ続きます。
【登城道本丸まで100m地点】
目の前には東曲輪と三ノ丸石垣が見えています。
【東曲輪跡と三ノ丸櫓台跡】 【三ノ丸櫓台石垣】
隅石は算木積みとなっているので斎藤もしくは掘尾時代の改修によるものだろう。
【三ノ丸虎口】 【三ノ丸虎口・城門跡】 【三ノ丸跡】
【二ノ丸櫓台石垣】 【二ノ丸櫓台石垣】 【二ノ丸石垣】
【二ノ丸虎口】 【二ノ丸跡】 【二ノ丸櫓台上から見た三ノ丸跡】
【本丸石垣】 【本丸石垣】 【堀切跡】
破城により埋められてしまっている。真ん中の虎口と土橋は後世のものである。
【堀切跡】
石垣の石などで埋められているのが良くわかる。
【堀切跡】 【本丸虎口】
【南側帯曲輪跡】 【本丸虎口の石垣】 【本丸虎口】
【本丸より見た二ノ丸跡】 【本丸跡】 【本丸からの眺望】
【南側帯曲輪跡】 【本丸の城址碑】 【本丸石垣】
【本丸石垣】 【南側帯曲輪跡】 【西曲輪跡】
【南側帯曲輪跡】 【西曲輪跡より見た本丸】 【北側帯曲輪跡】
【堀切跡】
北側帯曲輪より
【北側帯曲輪と登ってきた場所とは別の登城道】 【登城道の獣柵】
【東出丸跡】
太鼓の段などに行きたい場合はここから引返してください。
【東出丸虎口】
出丸下は堀切のようになっている。
【登城道】
【登城道の分岐】
左は多田方面、右は黒井方面と書かれています。
【黒井側登城道】
獣道に等しい藪の中を下っていきます。
【登城道】
開けた場所に出ると眼下に水辺が見えてきます。登ってきた場所と一本違いの尾根の様です。途中いくつか分岐があるのですが指標もないので注意が必要。
【登城道】
最後はこの斜面を下りて来る。
【丸新池】
池の畔に出ますが、ここから見える堰堤まで出るのに橋に架かる獣よけの網を避けて通る必要があり大変です。
【丸新池から見る黒井城跡】




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