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城名 | 真田出丸(別名:偃月城、真田丸) | ||
住所 | 〒543-0016 大阪府大阪市天王寺区餌差町 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | − | |||
城郭構造 | 出城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 真田信繁 | |||
築城年 | 慶長19年(1614) | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 真田信繁 | |||
位置 | 北緯34度401分21秒 東経135度31分35秒 |
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地図 | 1 | 主郭(現大阪明星学園) | ||
2 | 東郭(現心眼寺) | |||
3 | 空堀跡(現空堀町付近) | |||
4 | − | |||
5 | − | |||
【解説】 真田出丸は慶長19年(1614)大阪冬の陣の際、大阪城の弱点とされる南方面の防御を強化するため、大阪方の真田信繁(幸村)が築いた出丸で、現明星学園付近にあったとする説や明星学園の東側にある宰相山や現在の真田山とする説があるが、江戸時代の古地図から見ても「圓珠庵」の東北、「明星学園付近」説がもっとも有力である。 現在真田信繁像は、宰相公園にある三光神社境内に立っている。 真田出丸は大阪冬の陣の際に築かれ、大坂方と徳川方の和平の際に大阪城の惣堀(外郭の堀)を埋める約束をした際、徳川方は惣堀を総堀としニの丸の堀までを埋め、それとともに塀や櫓も破壊された。そのため真田出丸も当然のように破却されてしまっているので遺構もないのですが抜け穴跡が三光神社の真田信繁像の横にある。 【感想】 地図では真田山公園が出丸跡となっており、探しても真田信繁像には巡り合えなかった。そのため携帯で出丸跡を検索し、真田山の隣の宰相公園にあることがわかり行くことができた。しかし、宰相公園は、旧陸軍墓地になっていることを見ていなかったのでいきなり視界に入ってきたのがお墓ばかりで不思議な感じがした。 その陸軍墓地から一段下がった場所に三光神社がありその境内の一角に真田信繁像が立っていた。抜け道もありましたが遺構なのかどうかは、わかりません。 現在になり、真田出丸の場所が、有力とされていた大阪明星学園とされ、顕彰碑も建てられた。その向かいの心眼寺には出丸跡碑があり、坂下の町名は空堀町という場所でその高低差が出丸と空堀だったことが想像できます。 |
登城日 | 1回目:2009年4月18日(土) 2回目:2016年9月30日(金) |
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LINK | 真田丸-Wikipedia |
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城主家紋 | 【六文銭】 (滋野氏流海野氏族) 真田氏家紋 |
【三光神社】 | 【三光神社に建つ真田信繁像】 | 【三光神社に伝わる真田の抜け穴跡】 ここから大阪城に繋がっていたと云われる。 |
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【三光神社】 | 【三光神社 拝殿】 | 【宰相山公園】 | |
【真田山陸軍墓地】 帝国陸軍が設立した日本最大最古の陸軍軍人墓地。陸軍創始者大村益次郎は世襲制武士軍団ではない近代陸軍の創設を大阪から着手すべく、大阪城周辺に兵学寮、兵隊屯所、造兵寮、衞戍病院などを設立、明治4年(1871)日本最初の徴兵制が実施された。これに併せて同年設立されたのが真田山陸軍墓地である。 |
【真田山陸軍墓地】 | 【心眼寺下】 この高低差が空堀と出丸だったことが想像できる。 |
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【大阪明星学園グランド下】 この道が空堀跡。 |
【心眼寺にある出丸跡碑】 | 【心眼寺内の真田信繁の墓】 徳川時代から菩提を弔ってきたが、信繁の四百回忌(2014年)に際して墓碑を建立した。 |
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【大阪明星学園グランド脇に建つ真田丸顕彰碑】 もろ大河ドラマの影響で建てられたものです。 |
【大阪明星学園】 この場所(主にグランド)が真田出丸跡とされている。 |
【鎌八幡】 真田山と呼ばれる一帯の一番高い場所に「円珠庵(鎌八幡)」がある。ずっと昔からこの場所に大きなエノキの霊木があり、信仰を集めていた。鎌八幡大菩薩を宿すこのご神木に、真田幸村が戦勝を祈願すると、見事に「大坂冬の陣」で勝利したと言われる。 ※鎌八幡は「信仰の寺」なので中は撮影禁止です。 |