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城名 | 大塚城(別名:茶臼山砦、茶臼山陣城) | ||
住所 | 〒543-0062 大阪府大阪市天王寺区逢阪2丁目 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | − | |||
城郭構造 | 陣城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 山中又三郎(細川晴元の家臣) | |||
築城年 | 天文15年(1546) | |||
主な改修者 | 徳川家康 | |||
主な城主 | 細川氏、徳川家康(大阪冬の陣)、真田信繁(大坂夏の陣) | |||
位置 | 北緯34度39分6.8秒 東経135度30分41.2秒 |
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地図 | 1 | 茶臼山(大塚城跡) | ||
2 | 天王寺 | |||
3 | 一心寺 | |||
4 | 安居神社 | |||
5 | 庚申堂 | |||
【解説】 大塚城は天文15年(1546)に細川晴元の家臣・山中又三郎が茶臼山古墳の後円部に城を築いたと言われているが、天文16年(1547)7月21日、細川晴元方の三好長慶らの軍と細川氏綱・遊佐長教らの軍が激突した舎利寺の戦いで細川氏綱、遊佐長教連合軍に攻め込まれ同年9月4日に落城。 その後、慶長19年(1614)の大坂冬の陣では徳川家康がここに本陣を構えた。「中井家大工支配の研究」の『寛永十二年亥年五畿内江州大工杣御赦免被為成候時御訴訟申上候覚』によると、 大坂城下にあった船場の蔵や家々を壊し資材として「御やくら」を築いたと記載している。 この時すでに大塚城は廃城になっていたかは定かではないが、徳川家康の陣城として大きく改修された可能性がある。 また『武徳編年集成』には、大塚城の山頂部に徳川家康の寝所があって、南北に12畳に3間に1間の庇を有し、5尺の椽をつけていた。 西麓には茶屋南麓には納戸、東向きには浴室があり、番士の多くは北方向の一心寺に駐屯していたと記されている。 また翌元和元年(1615)の大坂夏の陣の決戦の際には、豊臣軍の真田信繁がここに着陣した。 茶臼山砦や茶臼山陣城としても有名である。 【感想】 大塚城としての知名度は低いが大阪の陣の際、冬は徳川家康、夏は真田信繁が本陣を置いた場所としての方が有名で茶臼山古戦場跡になる。 近くには真田信繁が休息しているところを討ち取られた安居神社や本多忠朝のお墓のある一心寺があり、毛利勝永が本陣を置いた四天王寺もあり、合戦の位置関係を実際に感じることが出来る。 |
登城日 | 2016年9月30日(金) | ||
LINK | 大塚城-Wikipedia |
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城主家紋 | 【二つ引両】 (清和源氏足利氏流) 細川氏家紋 |
【史蹟茶臼山碑】 | 【茶臼山】 | 【茶臼山頂上】 | |
【茶臼山】 | 【河底池】 | 【和気橋から見た茶臼山】 | |
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【河底池】 | ― | ― | |
【四天王寺(西重門・五重塔・金堂)】 大阪夏の陣の際、毛利勝永が陣を置いた場所。 |
【四天王寺(石舞台・六時礼講堂)】 | 【四天王寺・英霊堂】 | |
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【四天王寺・大黒堂】 | ― | ― | |
【社殿】 大坂夏の陣の際、真田信繁がこの場所で戦死したと云われる。 |
【真田幸村戦死跡之碑と真田幸村公之像】 | 【真田幸村公之像と社殿】 | |
【仁王門】 現代的な作りになっているので違和感を感じてしまいます。 |
【本多出雲守忠朝の墓】 酒封じの神様とされ、酒封じ祈願の杓文字が奉納されている。 |
【明治戊辰・伏見之役東軍戦死者招魂碑】 | |
【伝「真田の抜け穴」井戸跡】 | 【一心寺の墓地から見た通天閣】 | 【霧ふりの松】 | |
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【堀井神社】 | 【御神木】 | ― | |
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【庚申堂・門】 大坂夏の陣の際、ここから真田信繁の影武者(穴山小助)が出撃した場所と言われている。 |
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