城名 高松城(別名:玉藻城)
住所 〒760-0030
香川県高松市玉藻町2-1
入場時間 西門開門時間 日の出〜日没
東門開門時間 4月〜9月 7時〜18時
       10月〜3月 8時30分〜17時
(時間は季節により多少変わります)
休園日:12月29日〜31日
入場料
大人:200円、小人:100円
指定文化財 国指定史跡
重要文化財
(北の丸月見櫓、水手御門、渡櫓、旧東の丸艮櫓)
城郭構造 輪郭式平城(海城)
天守構造 独立式層塔型(1669年改・非現存)
築城主 生駒親正
築城年 天正16年(1588)
主な改修者 松平頼重、松平頼常
主な城主 生駒氏、松平氏
位置 北緯34度21分0.28秒
東経134度3分1.47秒
【沿革】
高松城は、またの名を玉藻城と呼ばれていますが、その由来は万葉集で柿本人麿が讃岐の国の枕言葉に「玉藻よし」と詠んだことに因んで、このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていたことによるといわれています。
この城は、天正15年(1587)に、豊臣秀吉から讃岐一国17万6千万石を与えられ、国主として入府した生駒親正が、天正16年から香東郡野原庄と呼ばれていた現在地に築城に着手した平城(水城)です。縄張りは、当時築城の権威であった黒田孝高(如水)とも細川忠興ともいわれています。数年の歳月を費やして完成し、高松城と名付けました。瀬戸内の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだこの城は、日本の三大水城のひとつといわれています。城には、本丸を中心に時計回りの方向に二の丸、三の丸、桜の馬場、西の丸が配され、三重の堀とともに堅固な構えとなっていました。
生駒氏の治世は4代54年間続きましたが、寛永19年(1640)に生駒騒動といわれる御家騒動により、讃岐一国を召し上げられ、出羽国(秋田県)矢島1万石に移されました。このあと、寛永19年(1642)に当時常陸国(茨城県)下館藩主だった松平頼重が東讃岐12万石の城主として入城しました。頼重は徳川家康の孫で、有名な徳川光圀の兄にあたります。将軍家と近親の関係にあった頼重は中国・四国の監察役を命じられていたといわれています。頼重以降、松平氏の治世は11代228年間にわたり、高松は松平氏の居城として栄えました。
お城は、明治3年に廃城伺いを提出し許可され、一時、政府の所管となりましたが、明治23年(1890)に城跡の一部が松平家に払い下げになり、昭和20年には松平家から財団法人松平公益会に継承され、さらに昭和29年に高松市が譲り受けて、高松市立玉藻公園として昭和30年5月5日から一般に解放されました。現在の玉藻公園の面積は79.587u(約2万41千坪)で、王寺の城域66万u(約20万坪)と比べると8分の1ほどの広さです。城跡には重要文化財の月見櫓、水手御門、渡櫓や艮櫓とともに石垣や堀などが残り、昭和30年3月2日に国の史跡に指定されています。

【感想】
現在、天守台の石垣の改修が行われており往時の姿をうかが窺うことができませんでしたが、近年見つかった天守閣の写真のような天守閣が復元されれば良いですね。
しかし、それとは反面重要文化財の月見櫓から北側の石垣の上にはあとからつけ足した石があり、鹿櫓が外から確認できなくなっていたり、本来の艮櫓のあった場所には残念ながらアルファあなぶきホールが覆いかぶさっておりとても残念な個所もあります。

二回目の来城は、天守台の修復完了し、天守台の穴蔵も見ることが出来ました。しかし本丸の地久櫓跡の場所には崩れてしまったのかシートが覆いかぶされていました。

100名城
スタンプ

スタンプ
設置場所
高松城東西入口2ヶ所
登城日 一回目:2009年3月20日(金)
二回目:2013年9月2日(月)
 LINK 玉藻公園HP
高松城-Wikipedia
城主家紋  【波切り車】
(藤原氏北家流後裔)
生駒家家紋
【徳川葵】
松平家家紋
その他 特別名勝庭園

                      

探訪
【高松城西入口】
看板の裏が廉櫓跡になっている。
【ニの丸北側石垣】 【ニの丸北側石垣と犬走り】
犬走りといえるか不明ですが石垣の下に平らな部分がある。
【報時鐘】
この鐘は初代松平藩主頼重が承応2年(1653)に城下の人に時を知らせるために建立した。最初外堀土手に建てられていた。
【月見櫓・渡櫓・水手御門】
月見櫓は北の丸の隅櫓として延宝4年(1676)頃に完成したといわれ、出入りする船を監視する役割を持つとともに、藩主が江戸から船で帰られるのをこの櫓から望み見たので「着見櫓」ともいわれます。
【水手御門】
月見櫓に連なる薬医門様式の水手御門は、いわば海の大手門です。
【月見櫓と三の丸石垣】
赤い線で囲んだ部分は後からつけ足されたものです。
たぶん危険防止のためにつけ足したものと考えられます。
【北の丸石垣】
【艮櫓跡】
本来の艮櫓のあった場所です。この上に蔽いかぶさっているアルファあなぶきホールを建てるために移築された。
【高松城東入口
東の入り口となる旭橋と旭門。
【中堀】 【艮櫓】
本来は太鼓櫓跡
【埋門】
高松城東入口付近にあり、枡形内に入った敵を攻撃するための出入り口のようです。
【艮櫓】
旧対尾櫓跡の石垣を拡張し艮櫓を右に90°向きを変えて移築したもの。
【来城記念と艮櫓】
【桜の馬場】
馬の教練をした場所で、かつては今の2倍ほどの広さがあった。
【桜御門跡】
三の丸入口
【桜御門跡】
三の丸入口の櫓門で昭和20年(1945)の高松空襲により焼失しました。
【修復後の天守台】 【天守閣模型】 【在りし日の天守閣】
3層5階(3層4階+地下1階)の南蛮造りだった。
【披雲閣】
藩の政庁及び藩主の住居として使用されていましたが老朽化により明治5年(1872)に取り壊され、大正6年(1917)に現在の被雲閣が完成しました。昔は現在の約2倍の広さがあった。
【内園御庭入口】 【披雲閣】
【手水鉢】 【披雲閣】 【内園井戸】
【披雲閣】 【披雲閣】 【披雲閣と内園御庭】
【内園井戸】 【蹲】 【披雲閣】
【月見櫓・渡櫓・水手御門】
三の丸より
【水手御門内側】 【渡櫓と月見櫓】
【鹿櫓跡】
赤の点線部分が作られたため外側からはわかりずらくなている。
【内堀】
水門付近から。
【水門】。
【水門】
ここから海水を取り入れている。
【蛸橋】 【蛸橋】
【矩櫓跡】
本丸内の櫓の一つ。
【天守台跡】 【天守台穴蔵跡】
【本丸跡】
天守台より見た本丸跡。
【文櫓跡】 【廉櫓跡】
天守台修復時
【天守台】
現在は修復中
【鞘橋】
ニの丸と本丸を繋ぐ唯一の橋。
【鞘橋】
天守台を修復中のため本丸には行けませんでした。




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