城名 | 川之江城(別名:仏殿城) | |||
住所 | 〒799-0101 愛媛県四国中央市川之江町 城山公園内 |
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入場時間 | 天守閣 午前9時〜午後4時 |
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入場料 |
大人100円、小人(小中学生)50円
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指定文化財 | 史跡 | |||
城郭構造 | 連郭式山城 | |||
天守構造 | なし(鉄筋コンクリート構造、模擬天守) | |||
築城主 | 土肥義昌 | |||
築城年 | 延元3年(1337) | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 土肥氏、妻鳥氏、小早川氏、福島氏、池田氏、小川氏、加藤氏 | |||
位置 | 北緯34度0分46.79秒 東経133度34分3.19秒 |
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【沿革】 南北朝動乱の頃(約650年前)南朝方、河野氏の砦として、土肥義昌が延元二年(1337)鷲尾山(城山)に川之江城を築いた。 興国三年(1342)北朝方、細川頼春が讃岐より七千の兵を率いて攻めてきた。 義昌は出城の畠山城主由良吉里と共に防戦したが敗れ、城を落ちのびて各地を転戦した末、武蔵国矢口の渡で戦死をしている。 細川氏の領有後、河野氏に返上され、城主は妻鳥友春になった。元亀三年(1572)阿波の三好長治が攻め入ったが、撃退している。 土佐の長曾我部氏の四国平定の力に抗しきれなかった友春は、河野氏に背いて長曾我部氏に通じた。怒った河野氏は川上但馬守安勝に命じて、城を攻めとらせた。天正七年(1579)前後のことと思われる。川上但馬守は、轟城の大西備中守と戦い、討たれたという話も残っているが、天正十年(1582)長曾我部氏の再度の攻撃に敗れ、戦死落城している。その時、姫ヶ獄より年姫が飛び込んで自殺したという悲話伝説も残っている。 天正十三年(1585)豊臣秀吉の四国平定に敗れ、小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替り、加藤嘉明の時、最終的に廃城になった。 数々の攻防は、川之江が地理的に重要な位置にあった為の悲劇ともいえる。 戦国の世も終わった寛永十三年(1636)一柳直家が川之江藩28,600石の領主になり城山に城を築こうとしたが寛永十九年(1642)病没。領地は没収されて幕領となり、明治に至ったため、わずか六年の「うたかたの川之江藩」で終わった。 その後年月を経って城跡は、本丸付近の石垣に僅かの名残りを留めるに過ぎなかったが川之江市施行30周年記念事業として、市民の浄財を基に城の再建が計画され現在に至る。 天守等は必ずしも史実通りに復原されたものではない。 【感想】 歴史的価値は、ないのだろうが天守からの眺めは瀬戸内海を望め最高です。 |
登城日 | 2009年7月16日(木) | ||
LINK | 川之江城-Wikipedia | |||
城主家紋 (関係家紋) |
【折敷に三文字】 (越智氏流) 河野家家紋 |
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【三つ巴】 (桓武平氏良文流) 小早川家家紋 |
【登城口の仏殿城址碑】 川之江駅の陸橋からは天守が見えるがここからは見えない。 |
【三ノ丸】 | 【川之江城碑】 |
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【涼櫓】 反対側には欄干があり月見も出来そう。 |
【二ノ丸】 なぜか土俵がある。 |
【櫓門】 二ノ丸と本丸を区切る門。 |
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【櫓門内側】 | 【本丸】 天守は模擬だが立派なものです。 |
【天守南側】 | |
【天守より北側眺望】 | 【天守より南西側眺望】 | 【天守より隅櫓(トイレ)と櫓門】】 |