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城名  松山城(別名:金亀城、勝山城)
住所 〒790-0008
愛媛県松山市丸之内1
入場時間 天守閣・二之丸史跡庭園
2月〜7月、9月〜11月:午前9時〜午後5時
8月:午前9時〜午後5時30分
12月・1月:午前9時〜午後4時30分
休園日:12月29日
入場料
天守閣:大人500円、小人150円
二之丸史跡庭園:大人100円、小人50円
指定文化財 国の重要文化財(大天守、野原櫓・乾櫓・隠門続櫓など櫓6棟、戸無門・隠門・紫竹門・一ノ門など門7棟、筋鉄門東塀など塀7棟)
国指定史跡
城郭構造 連郭郭式平山城
天守構造 連立式層塔型3重3階地下1階
築城主 加藤嘉明
築城年 慶長7年(1602)
主な改修者 松平勝善
主な城主 加藤氏、松平(久松)氏
位置 北緯33度50分43.94秒
東経132度45分56.6秒
地図 天守閣
大手門
戸無門
乾櫓・乾門・乾門東続櫓
艮門・艮門東続櫓
100名城
スタンプ

【沿革】
松山城の創設者は加藤嘉明です。嘉明は羽柴秀吉に見出されてその家臣となり、20才の時に賤ヶ岳の合戦において七本槍の一人としても有名です。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となります。そこで嘉明は同7年に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築くため、普請奉行に足立重信を命じて地割を行い工事に着手し、翌8年(1603)10月に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という名称が公にされました。その後も工事は継続され、寛永4年(1627)になってようやく完成します。当時の天守は五重で偉観を誇ります。しかし嘉明は松山にあること25年、寛永4年(1627)に会津へ転封されることになりました。

そのあとへ蒲生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)上の山城から入国し、二之丸の築造を完成しましたが寛永11年8月参勤交代の途中、在城7年目に京都で病没し、嗣子がいないので断絶します。その後寛永12年(1635)7月伊勢国(三重県)桑名城主松平定行が松山藩主15万石に封じられて以来、14代世襲して明治維新に至りました。

なお天守は寛永19年(1642)に三重に改築されましたが、天明4年(1784)元旦に落雷で焼失したので、文政3年(1820)から再建工事に着手し、35年の歳月を経て安政元年(1854)に復興しました。これが現在の天守です。その後、昭和に入り小天守やその他の櫓が放火や戦災などのため焼失しましたが、昭和41年から全国にも例を見ない総木造による復元が進められました。



【感想】
朝から雨で二之丸史跡庭園を見た後に黒門登城道から登りました。やはり本来の登城ということもあり登りつめると大手門があり感動を覚えます。大手門を過ぎたあたりで土砂降りにあい筒井門をくぐるとガイドさんが説明してくれるということで折角なのでいろいろ聞きながらトータルで3時間本丸にいました。
パンフレットには載っていないこともいろいろ聞け勉強になりました。
訪れた時に時間があればガイドさんと周られると面白いですよ。
帰りは登り石垣を見たいので県庁裏登城道を下っていきました。登り石垣に感動しながら写真を撮っていました。
次は晴れた時に見て周りたいと思いました。
スタンプ
設置場所
天守入口
登城日 2009年7月17日(金)
 LINK 松山市公式HP
松山城HP
松山城-Wikipedia
城主家紋  【蛇の目】
(藤原氏利仁流)
加藤家家紋
左三つ巴
(藤原氏秀郷流)
蒲生家家紋
【梅 鉢】
(菅原道真後裔)
久松家家紋

                      

探訪
【三之丸付近より天守】 【三之丸堀】 【三之丸土塁】
【三之丸】
三之丸にあった野球場などを移動し、史跡公園をつくるらしい。
【二之丸石垣】 【二之丸虎口】
【二之丸多聞櫓】 【二之丸多門】
【二之丸史跡庭園】
奥御殿跡流水園
【二之丸史跡庭園】 【大井戸】
東西約18m、南北約13m深さ9mの規模がある。
【俎板】
いわくつきの岩です。世継ぎができない蒲生忠知は毎日二之丸から道行く女性を眺め、妊婦を見つけると二之丸に連れてきて大きな庭石の上で腹を裂いて胎児の性別を確認したそうです。三之丸では殺された母親や嬰児の泣き声が夜になると聞こえたそうです。別名「夜泣き岩」
【黒門跡】
黒門登城路の入口となる。本来の登城口です。
【槻門跡】 【槻門の石垣】
【黒門登城道】 【大手門跡】
黒門登城道を登りつめると大手門に出ます。
【戸無門と筒井門西続櫓】
【戸無門】(重要文化財)
この門は建築様式から高麗門であるが、昔から戸がないので戸無門という。鏡柱にも扉を取り付けた痕跡がありません。
【筒井門と筒井門東続櫓、隠門続櫓(重文)】 【戸無門と筒井門西続櫓と太鼓櫓(奥)】
【筒井門】
この門は築城の際、正木城から移建されたと伝えられる松山城最大の門です。三之丸・二之丸から本丸へ向かう、大手(正面)の固めを構成する重要な櫓門で、城中で最も重要かつ堅固な所となっています。
【隠門】(重要文化財)
この門は筒井門の奥の石垣の陰に隠された、埋門(うずみもん)形式の櫓門で、戸無門から筒井門に迫る敵の背後を急襲する構えとなっています。脇戸を持たず、扉の横板張りの中に潜戸(くぐりど)を仕組むなど規模は小さいですが、豪放な構えで、続櫓外部の下見板張りや格子窓形式の突揚げ戸などとともに、築城当時の面影を見ることができます。
【太鼓門】
太鼓門・同東続櫓・太鼓櫓・巽櫓は1つの防御単位を構成し、高さ6.9mの石垣の上に一線に構築され、筒井門から本丸南腰郭に侵入してくる敵に備えています。
太鼓門が焼失する際、火を消そうと水を掛けたため石垣にひびが入っているものがある。
【太鼓門】 【太鼓櫓】 【巽櫓】
【本丸より北西方向の眺望】 【本丸井戸】
南北2つの峰を埋め立てて本丸の敷地を作った際、谷底にあった泉を井戸として残したといい伝えられています。井戸の直径2m深さ44.2mで当時の技術では、通常、掘ることができない深さがあります。
【馬具櫓】
【本丸】
ここは2つの山の谷を埋めて作られた。そのため地面を固める必要もあり本丸は馬場も兼ねていた。左の建物は、馬具櫓。
【天守群全景】
大天守は三重三階地下一階の層塔型天守で、黒船来航の翌年落成した江戸時代最後の完全な城郭建築です。
小天守は、二重櫓、小天守東櫓とも呼ばれ、大手(正面)の二之丸・三之丸方面を監視防衛する重要な位置にあります。大天守、小天守、隅櫓を廊下で互いに結び、武備に徹したこの天守建造物群は、わが国の代表的な連立式城郭といわれています。
小天守の前には松・竹・梅が植えられている。
【本丸南側石垣】
南側石垣は崩れやすかったため、この石垣についている刻印は大名の刻印ではなく石工の刻印で担当した場所を示しており、もしその部分の石垣が崩れた場合、その担当石工は今後作事には使われなかったそうです。
【本丸北側屏風折れ石垣】 【紫竹門】(重要文化財)
本壇に接して紫竹門および続塀があります。乾門方面からの侵入に対し、この門と東塀・西塀によって大きく仕切ることにより、本丸の搦手(裏)を防衛する重要な構えです。
【乾東続櫓・乾門・乾櫓(重要文化財)】
この門、櫓は慶長年間正木城から移建されたといわれ、乾一ノ門とともに、松山城の搦手(裏)の門の中で、最も重要な構えとなっています。
乾櫓は築城当初の二重の隅櫓で、本丸の乾(北西)の隅の鈍角の石垣の上に鈍角の櫓が建っています。乾門・同東続櫓とともに搦手(裏側)を防衛する重要な構えです。弾丸が壁を貫けないように壁の中に小石や瓦を詰めて厚くする、太鼓壁構造となっています。
【乾門】 【中門跡】
搦手側の仕切門
【野原櫓と北側石垣】
【北側登り石垣】
北側は大部分が破壊されており残っているのはこの部分のみである。
【乾櫓・乾門・乾東続櫓】 【野原櫓】(重要文化財)
野原櫓は乾櫓とともに本丸西北を防備するとともに、その東にあった小筒櫓(跡)と本丸の北側を防衛する重要な櫓であり、日本で唯一現存する望楼型二重櫓で、天守の原型といわれています。
【十間廊下】
北隅櫓と南隅櫓を結び、その桁行が十間であるのでこの名がある。乾門庄門を防衛する重要な位置にある。

【艮門・艮門東続櫓】
本壇の鬼門(北東)にあたり、不浄門ともいいます。この方面の防備を担当すると共に、本丸防衛のための出撃口としての意味も持ち、敵が大手(正面)の揚木戸門に、あるいは、また搦手(裏側)の乾門方面に迫ったとき、この門から出撃して侵入者の側面を攻撃するためのものと考えられます。
【艮門】
【艮門東続櫓】
工事用の搬入口が景観を損ねています。とても残念です。
【天守】
左から小天守、天守、一ノ門櫓。
【小天守】
小天守の左に見えるが南隅櫓。
【紫竹門東塀】(重要文化財)
塀を石で支えているのは、矢玉が尽きた際、石を叩き割り下にいる敵兵に向けて塀ごと落とせるようになっている。
【一ノ門】(重要文化財)
脇戸付きの高麗門で本壇の入口になるのでこの名が付いている。二ノ門南櫓・三ノ門南櫓・小天守閣から射撃される構えになっている。
【二ノ門】(重要文化財)
本壇における二番目の門で薬医門の形式をもつ。天守閣・三ノ門東塀から射撃される構えになっている。
【三ノ門】(重要文化財)
本壇における三番面の門で高麗門の形式をもつ。三ノ門南櫓・天守閣から射撃される構えとなっている。
【三ノ門南櫓】(重要文化財)
一ノ門・二ノ門・三ノ門を防衛する役目をもつ一重櫓である。
【筋金門と筋金門東塀】(重要文化財)
筋金門は、脇戸付の櫓門で門の柱に鉄板が張ってあるのでこの名がある。櫓は天守閣と小天守閣の通路となり、三ノ門を防衛する構えとなっている。
筋金門東塀は一ノ門南櫓・一ノ門・小天守を防衛する。これも石を叩き割れるようになっている。
【玄関・玄関多聞】 【玄関多聞と北隅櫓】
玄関に続く北隅櫓は小天守北ノ櫓とか申酉小天守とも呼ばれ、大天守に次ぐ格式をもつ櫓です。
【天守閣と穀倉】(重要文化財)
天守閣の地下一階にあたり、俗に米蔵というが、内部に防腐力の強い、樟材を使用し、床に素焼の煉瓦を敷いて湿気を避けている。
【小天守閣】
天守閣につぐ重要な二層二階の櫓で、大手・搦手を防衛する絶好の位置にある。純白の外壁が天守閣の黒漆の板壁と対して美しい。
【南隅櫓】
本壇の西南隅に位置し、乾門方面を防衛するとともに、二ノ丸・三ノ丸を監視する二層櫓である。
【天守より湯築城】
手前の木に覆われた山が湯築城です。
【本丸南側全景】 【天守北側眺望】 【天守最上階の床の間】
天守最上階は畳が敷けるようになっており、襖も入るようになっている。また、天井板もしっかり張られている。
【内門】 【仕切門】(重要文化財)
門の隣の仕切門内塀(重要文化財)は、乾門方面に対し側防の構えとなっている。
【天神櫓】
卯歳櫓、東隅櫓とも呼ばれ具足櫓でありましたが、後に本壇の鬼門(東北隅)にあたるため、城の安泰を祈り久松松平氏の祖先神である天神(菅原道真)を祭ったのでこの名称です。全国的にあまり例のない寺社建築の正面扉(しとみど)を有する櫓となっています。
【天守閣】(重要文化財) 【揚木戸門跡】
西の大手門と共に大手の入口の重要な拠点となっていた。
【石落し用の石】
昔は数か所に置場があったが現在はここだけになっている。
(ロープウェイ乗り場付近)
【南登り石垣】 【南登り石垣】 【南登り石垣】




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