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城名 高知城(別名:鷹城、大高坂山城、河中山城)
住所 〒780-0850
高知県高知市丸の内1-2-1
入場時間 午前9時〜午後5時
休日:12月26日〜1月1日
入場料
18歳以上:400円
指定文化財 重要文化財(天守、懐徳館(本丸御殿)、納戸蔵、黒鉄門、西多聞、東多聞、詰門、廊下門、追手門他塀6棟)
国史跡
城郭構造 悌郭式平山城
天守構造 独立式望楼型4重6階(1601年築・1747年再)現存
築城主 山内一豊
築城年 慶長6年(1601)
主な改修者 山内豊敷
主な城主 山内氏
位置 北緯33度33分38.53秒
東経133度31分53.54秒
地図 追手門(重要文化財)
詰門(重要文化財)
黒鉄門(重要文化財)
懐徳館(本丸御殿)(重要文化財)
搦手門跡
100名城
スタンプ

【沿革】
高知城は、もとは大高坂城といい、南北朝時代には大高坂松王丸がここに砦を築いて南朝方に味方して戦った記録がある。
戦国時代の天正16年(1588)、土佐の国主でもあった長宗我部元親がここに築城して、岡豊城から移ったが、城下が低湿地のため水難に悩まされ、3年ほどで浦戸に移った。
期間が短く、その規模や構造は明らかでない。
現在の城郭は、関ヶ原の戦の功で遠州掛川6万石から土佐24万石に封じられた山内一豊が、慶長6年(1601)から築いた城です。人夫は毎日1,200人から1,300人を動員し、資材は近隣から集め、瓦は大阪から取り寄せ、一豊は一日おきに浦戸から工事の督励のために現場におもむきました。慶長8年(1603)には本丸と詰門・太鼓櫓が完成し、一豊は同年8月に入城しました。
享保12年(1727)には大火にあい、追手門ほか数棟を残して焼失しましたが、2年後に再建に着手し、24年かけて復旧しました。これが現在の高知城です。天守閣と追手門がそろって残っていることや、全国で唯一本丸内の建造物がほぼ完全な形で残っていることなどから、城郭史上極めて貴重な遺構です。これらを含めて15の建造物が国の重要文化財の指定を受けている他、敷地は高知城跡として国の史跡に指定されています。


【感想】
現存十二天守の最後の本門城となり感無量でした。本丸御殿が完全に残っているのはここだけなので天守との接続部分など見ることができ良かったです。ただ三の丸の石垣を工事していたのが少し残念でした。
スタンプ
設置場所
懐徳館(本丸御殿)入口
登城日 2009年7月19日(日)
 LINK 高知城公式HP
高知城-Wikipedia
城主家紋 【丸に三つ柏】
(藤原北家秀郷流)
山内家家紋

                      

 探訪
【天守】
追手門付近より。
【山内一豊像】 【追手門と天守】
【追手門】(重要文化財) 【高知城碑】 【板垣退助像と天守】
【登城道】 【石樋】 【一豊の妻・千代像】
【三の丸石垣】
杉の段より撮影、改修中。
【二の丸登城道】 【石樋】
下の部分も残っている、ここから登城道を下るように排水溝が地中にあるそうです。
【鉄門跡】
この場所には左右の高い石垣をまたいで入母屋造り二階建ての門が設けられていた。
【詰門】
詰門は本丸と二の丸の間に設けられた空濠をまたぐかたちで建てられており、橋廊下という旧名がある。階上が登城した武士の詰所となっていたため、現在は詰門と称している。東の出入口は右寄りに設け、西側の出入口は中央に付けられていて、筋違いになっている。
【詰門付近から天守】
【三の丸】 【二の丸付近から天守】 【二の丸】
【二の丸の池】 【詰門(廊下橋)と天守】 【詰門(廊下橋)】
本丸への出入口。
【詰門(廊下橋)内部】 【廊下門】 【廊下門】
【本丸−天守・懐徳館(本丸御殿)】 【懐徳館(本丸御殿)入口】 【西多聞】
【懐徳館(本丸御殿)】 【懐徳館(本丸御殿)内部】 【懐徳館(本丸御殿)内部】
【物見窓】
鉄砲狭間から覗いているだけでは、敵兵全体の動向を把握するのは難しく、土壁上面寄りに一間幅で横長に、横連子の武者窓を設けています。本丸東南面の物見を一手に引き受けた軍学上重要な窓で、高知城にのみ残っています。
【懐徳館(本丸御殿)内部】 【懐徳館(本丸御殿)内部】
【天守入口】 【天守-石落し】 【天守の鯱】
【三の丸全景】 【二の丸全景】
手前は東多聞、廊下門、詰門。
【本丸全景】
左手奥は黒鉄門、右手奥は西多聞。
【天守からの眺望】 【天守からの眺望】
岡豊城方面。
【黒鉄門】
【鐘楼堂】 【獅子(梅)の段】 【詰門】
西側から。
【御台所屋敷跡(上段)】
御台所屋敷跡は本丸西、獅子の段下に位置する丘陵部に造られた出丸状の曲輪です。
【御台所屋敷跡(下段)と石垣】 【西の丸跡】
現在は弓道場-弘徳館になっている。
【搦手門跡】 【致道館】
参政吉田東洋が16代藩主山内豊範の命により文久2年(1862)創設始め文武館と称したが慶応元年(1865)致道館と改称した。幕末非常事態での藩士の教育機関として文武両道を厳しく鍛練するとともに西洋学術も受容した。
【表御殿跡前の堀】
表御殿跡には現在県庁が建つ。
【御馬場跡】




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