城名 | 首里城 | |||
住所 | 〒903-0812 沖縄県那覇市首里当蔵町3丁目1 |
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入場時間 | 有料エリア(正殿・奉神門・南殿・番所・書院・鎖之間・北殿) 開館時間 4月〜6月、10,11月:午前8時30分〜午後7時 7月〜9月:午前8時30分〜午後8時 12月〜3月:午前8時30分〜午後5時30分 無料エリア(歓会門、木曳門、久慶門) 4月〜6月、10,11月:午前8時〜午後7時30分 7月〜9月:午前8時〜午後8時30分 12月〜3月:午前8時〜午後6時30分 首里城公園施設の一部休館日: 7月の第1水曜日とその翌日 |
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入場料 |
一般800円、高校生600円、小中学生300円
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指定文化財 | 「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に首里城跡が登録 国指定史跡 |
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城郭構造 | 山城 | |||
天守構造 | なし(正殿が天守に相当) | |||
築城主 | 不明 | |||
築城年 | 14世紀末(推定) | |||
主な改修者 | 尚巴志 | |||
主な城主 | 第一尚氏、第二尚氏 | |||
位置 | 北緯26度13分1.31秒 東経127度43分10.11秒 |
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【沿革】 首里城は沖縄の歴史・文化を象徴する城であり、首里城の歴史は琉球王国の歴史そのものである。 首里城は小高い丘の上に立地し、曲線を描く城壁で取り囲まれ、その中に多くの施設が建てられている。いくつもの広場を持ち、また信仰上の聖地も存在する。これらの特徴は、首里城に限られたものではなく、グスクと呼ばれる沖縄の城に共通する特徴であった。他のグスクは首里城との競争に敗れ滅んでしまったが、首里城のみはグスクの特徴を保持しながら新たな発展を遂げたのである。 首里城は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に 完成している。正殿をはじめとする城内の各施設は東西の軸線に沿って配置されており、西を正面としている。西を正面とする点は首里城の持つ特徴の一つである。中国や日本との長い交流の歴史があったため、首里城は随所に中国や日本の建築文化の影響を受けている。正殿や南殿、北殿はその代表的な例である。 首里城は国王とその家族が居住する「王宮」であると同時に、王国統治の行政機関「首里王府」の本部でもあった。また、各地に配置された神女たちを通じて、王国祭祀を運営する宗教上のネットワークの拠点でもあった。さらにまた、首里城とその周辺では芸能・音楽が盛んに演じられ、美術・工芸の専門家が数多く活躍していた。首里城は文化芸術の中心でもあった。 1879年(明治12)春、首里城から国王が追放され「沖縄県」となった後、首里城は日本軍の駐屯地、各種の学校等に使われた。1930年代に大規模な修理が行われたが、1945年にアメリカ軍の攻撃により全焼した。戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなったが、大学移転後に復元事業が推進され現在に及んでいる。復元された首里城は、18世紀以降をモデルとしている。2000年12月には首里城跡が世界遺産に登録されている。 【感想】 思っていた以上に広く見るところは多かった。すべて復元が終わっているかのように思っていた首里城だがまだ未公開区域があることに驚かせられた。未公開区域である本殿裏の国王の居住区域がいつ公開されるのか楽しみである。 正殿の修復が完了し国王の居住区も公開となって再訪を楽しみにしていたのですが先日の火災により正殿付近御建物が焼失してしまったことは痛ましい出来事で今でも信じられませんが、早期の復元を願っております。 |
100名城 スタンプ |
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スタンプ 設置場所 |
首里杜館、系図座・用物座、北殿 | |||
登城日 | 2010年8月11日(水) | |||
庭園 | ||||
LINK | 首里城公式HP | |||
首里城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【三つ巴] (不詳/伝説に源為朝後裔) 尚氏家紋 |
【正殿の雛形】 ビジターロビーに展示。 |
【首里城跡碑】 | 【守礼門】 「守礼(しゅれい)」は「礼節を守る」という意味で、門に掲げられている扁額(へんがく)には「守ネ豊之邦(しゅれいのくに)」と書かれている。「琉球は礼節を重んずる国である」という意味である。首里城は石垣と城門の多い城であるが、中でもデザイン上バランスがとれ、エレガントな雰囲気のある代表的な門がこの「守礼門」である。中国風の牌楼(ぱいろう)という形式で建立されている。 |
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【園比屋武御獄石門(そのひゃんうたきいしもん)】 門後方に存在する聖地を拝礼するために造られた門。国王が城外へ外出する際にここで無事を祈願したという。世界遺産。 |
【重修天女橋碑記碑】 円鑑池の中島にある弁財天堂に架けられた天女橋を乾隆9年(1744)に改修した記念に建立された石碑が、後に倒壊したため、嘉慶3年(1798)に新たに建てられたものである。このため同碑は、乾隆9年の碑文内容をそのまま取り込んだ上で嘉慶3年の建碑情報を新たに追加して石碑となっている。。 |
【龍潭】 円鑑池の水が流れ込むようになっている。 |
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【龍潭】 1427年に造られた人工の池である。かつてこの付近に建てられていた沖縄最古の碑文「安国山樹華木記(あんこくざんじゅかぼくき)」によれば、国相懐機が中国におもむき、造園技術を学んでこれを造ったとされている。 |
【円鑑池越しの弁財天堂】 | 【天女橋と弁財天堂】 15世紀末に朝鮮王から贈られた御経「方冊蔵経(高麗版大蔵経)」を納めるため1502年円鑑池の中にお堂が設けられました。そこへ至る橋が天女橋で当初は観蓮橋と呼ばれました。 1609年薩摩の琉球入りでお堂は破壊され方冊蔵経は失われました。1621年に至って新たにお堂を建て弁財天像を祀り以後弁財天堂と呼ばれ橋も天女橋と呼ばれるようになりました。 |
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【弁財天堂】 | 【円覚寺総門】 円覚寺は琉球における臨済宗の総本山で、山号を天徳山と称した。第二尚氏王統の菩提寺であり、琉球随一の寺院であった。尚真王が父王尚円を祀るため、1492年から3年がかりで建立した伝えられる。開山住持は京都南禅寺の芥隠禅師である。建築の手法は、鎌倉の円覚寺にならった禅宗七堂伽藍の形式を備えていた。 |
【円覚寺跡】 | |
【放生橋】(重要文化財) 橋の勾欄羽目の彫刻は精緻を極め、沖縄の石彫美術の最高傑作であると言われている。 |
【歓会門】 首里城の城郭内へ入る第一の正門で、「歓会」とは歓迎するという意味である。往時、首里城へは中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」が招かれたが、こうした人々を歓迎するという意味でこの名が付けられた。 首里城は外郭と内郭により二重に囲まれているが、ここは外郭の最初の門で、別名「あまえ御門(あまえうじょう)」ともいう。「あまえ」とは琉球の古語で、「喜ばしいこと」を意味する。 |
【歓会門のシーサー】 門の両側には「シーサー」という一対の石造の獅子像があるが、これは魔除けの意味で置かれている。 |
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【冊封七碑】 龍樋の周辺(石段)に設置されている七つの石碑のことである。中国皇帝の使者として琉球国王の即位を宣言するために遣わされた歴代の「冊封使」たちは、龍樋の水の清らかさを讃え、漢詩を詠んだり題字を残した。それらの碑は沖縄戦で破壊され、ほとんど現存しないが、1984年(昭和59年)発掘調査の際に「飛泉」という割れた石碑が発見され、沖縄県立博物館に保存されていた「漱玉」という石碑の残り半分であることが判明し当時話題になった。「飛泉漱玉」とは清らかな泉が玉のように飛び散っているという意味である。現在ある七碑は拓本をもとに復元されている。 |
【龍樋】 龍の口から湧水が湧き出していることからそのように名付けられた。この水は王宮の飲料水として使われていた。 また、中国皇帝の使者・冊封使(さっぽうし)が琉球を訪れたとき、那覇港近くにあった「天使館」という宿舎まで、毎日ここから水をはこんだといわれている。 龍の彫刻は1523年に中国からもたらされたもので、約500年前のものである。 |
【龍樋】 | |
【冊封七碑の一つ中山第一の碑】 大意は「泉の水量は、水質は琉球第一の泉である。」。 |
【瑞泉門】 「瑞泉」とは「立派な、めでたい泉」という意味である。門の手前右側にある湧水が「龍樋」と呼ばれ、それにちなんでこのように名付けられた。ここは第二の門で、別名「ひかわ御門(うじょう)」ともいう。 |
【瑞泉門のシーサーからの眺望】 | |
【漏刻門】 「漏刻」とは中国語で「水時計」という意味である。ここは第三の門で、別名「かご居せ御門(うじょう)」ともいう。 当時、身分の高い役人は駕籠にのって首里城へ登城したが、高官でも国王に敬意を表し、この場所で駕籠から下りたということからそのように呼ばれている。創建は15世紀頃である。 門の上の櫓に水槽を設置し、水が漏れる量で時間を計ったといわれている。時刻を測定すると係の役人がここで太鼓を叩き、それを聞いた別の役人が東(あがり)のアザナと西(いり)のアザナおよび右掖門で同時に大鐘を打ち鳴らし、城内および城外に時刻を知らせた。 この「漏刻」の制度については、1456年の朝鮮の記録に「(琉球のそれは)我が国のものと何らかわりない」と記されている。 |
【日影台】 「漏刻門」の正面に置かれているのが「日影台(にちえいだい)」という日時計である。往時もこの場所におかれ、水時計の補助的な道具として使われた。 1739年、従来の漏刻は不完全であるとして、はじめて日影器を製作し設置したと伝えられる。以後、この時間制度は明治12年(1879)廃藩置県まで続いた。 |
【供屋】 | |
【万国津梁の鐘】 この鐘は歴史資料では1458年に首里城正殿に掛けられていたと記録されているが、具体的な設置場所が不明であるため、当面供屋内に設置している。 沖縄県立博物館に収蔵されている「万国津梁の鐘」のレプリカである。鐘には「琉球国は南海の美しい国であり、朝鮮、中国、日本との間にあって、船を万国の架け橋とし、貿易によって栄える国である。」という主旨の銘文が刻まれており、往時の海洋王国としての誇らしい心意気が示されている。 |
【広福門】 「広福」とは、「福を行き渡らせる」という意味である。「広福門」は別名「長御門(ながうじょう)」といい、第四の門である。建物そのものが門の機能をもっており、この形式も首里城の城門の特徴である。 王府時代、この建物には神社仏閣を管理する「寺社座」と、士族の財産をめぐる争いを調停する「大与座(おおくみざ)」という役所が置かれていた。現在は、券売所等に利用されている。 |
【系図座・用物座】 「下之御庭(しちゃぬうなー)」の西側にある建物は、「系図座」と「用物座」という役所があった建物である。 「系図座」は士族の家系図を管理していた役所、「用物座」は場内で使用する物品、資材等の管理を行った役所である。 |
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【木曳門】 この門は、首里城の修復工事のときにのみ、資材の搬入口として使用された門である。普段は石積によって封鎖され、数年に1度といった頻度で行われる工事のときだけそれを撤去して使用した。 |
【西のアザナからの眺望】 標高約130mの城郭の西側に築かれた物見台で、ここからは那覇の町や那覇港の様子、そして遠く水平線上に慶良間諸島などが展望できる。 別名「島添アザナ」ともいい、往時はここに旗を立て、鐘を備えて時刻を報じた。城外、城内を眺望するには最高の場所である。 |
【京の内入口門】 | |
【京の内の石垣】 | 【京の内】 「下之御庭」南側の石垣の向こう側は「京の内」という城内最大の信仰儀式の場である。 首里城発祥の地ともいわれ、琉球独自の信仰の最高位に位置する聞得大君(きこえおおきみ)や大アムシラレといった神女(しんじょ)たちが、ここで王家繁栄、航海安全、五穀豊穣等を神に祈っていた。 |
【庭園】 | |
【京の内出口門】 | 【京の内出口門から見た正殿】 | 【京の内の石垣】 | |
【首里森御嶽】 城壁の手前にある礼拝所を「首里森御嶽(すいむいうたき)」という。「琉球開闢(かいびゃく)神話」によれば、神が造られた聖地であるとされている。また、城内にはここを含めて「十嶽(とたけ)」と呼ばれる10ヶ所の礼拝所があったといわれる。 琉球最古の歌謡集『おもろさうし』にも「首里森御嶽」に関する詩歌が多数登場する。 |
【奉神門】 「神をうやまう門」という意味で、首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る最後の門である。1562年には石造欄干が完成したという記録があることから創建はそれ以前である。その後1754年に中国の制に倣い改修した。建物は明治末期頃に撤去されたが、1992年(平成4)に外観が復元された。現在は公園管理のための施設として利用されている。 別名「君誇御門(きみほこりうじょう)」ともいう。向かって左側(北側)は「納殿(なでん)」で薬類・茶・煙草等の出納を取り扱う部屋、右側(南側)は「君誇(きみほこり)」で城内の儀式のとき等に使われた。 3つの門のうち中央は国王や中国からの冊封使(さっぽうし)等限られた身分の高い人だけが通れる門である。それ以外の役人は両側の門から入城した。 |
【奉神門】 | |
【正殿】 正殿は琉球王国最大の木造建造物で国殿または百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)とよばれ、文字通り全国百の浦々を支配する象徴として最も重要な建物でした。 正殿を二層三階建てとすることや装飾化した龍柱は日中にも類例がなく、琉球独自の形式といってよいでしょう。 首里城正殿の壁等の彩色塗装には、桐油が塗られています。なお、下地の一部は漆です |
【正殿】 | 【御庭】 「御庭(うなー)」は首里城の中心部である。正面が「正殿」、向かって右(南側)が「南殿・番所」、左(北側)が「北殿」で、これらに囲まれた中庭広場の空間を「御庭」という。 年間を通じて様々な儀式が行われた広場である。御庭には磚(せん)【敷き瓦】というタイル状のものが敷かれているが、この色違いの列は、儀式のさいに諸官が位の順に立ち並ぶ目印の役割をもっていた。 中央の道を「浮道」といい、国王や中国皇帝の使者【冊封使】等限られた人だけが通ることを許された。 |
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【正殿前の龍柱】 | 【南殿・番所】 庭から向かって右側が「番所」、左側が「南殿」である。「番所」は、通常は首里城へ登城してきた人々の取次を行った所であり、「南殿」は日本風の儀式が行われた所である。 |
【書院・鎖之間】 書院は国王が日常の執務を行った、御書院と言われる広間がある建物である。取次役や近習などの側近の者がその周囲に控えていた。また、中国皇帝の使者(冊封使)や那覇駐在の薩摩役人を招き、ここで接待を行うこともあった。 また、奥には内炉之間と言われる茶室があり、御書院の裏座にあたり、お茶を点てて客人に振る舞っていた。 他に、茶道具一式を用意した御茶之間と言われる座敷がある。 鎖之間は王子などの控え所であり、また諸役の者達を招き懇談する、御鎖之間と言われる広間がある建物である。 また、奥には裏御座と言われる茶室があり、御鎖之間の裏座にあたり、お茶を点てて客人に振る舞っていた。 |
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【庭園】 庭園は、書院・鎖之間と一体をなす重要なもので、城内で唯一の本格的な庭園である。書院に招かれた冊封使たちは、この庭園の魅力を讃える詩を詠んだ。その様子を「わだかまった松と蘇鉄とを、奇怪な格好をした石の間に、互い違いに植えている」と伝えている。 沖縄県内のグスクの中で、庭園があったことが分かっているのは首里城だけで、琉球石灰岩をたくみに利用したつくりになっている。 |
【二階御殿(にーけーうどぅん)】 「御住居所御殿(ごじゅうきょしうどぅん)」とも呼ばれ、国王の日常的な居室として使われていました。 城内の行政施設が入母屋造りであるのに対し、寄棟造りとなっていて、格を下げた形式になっています。地形に合わせて北側は二階建て、南側は平屋建てになっています。二階内部は床の間や違棚のある書院風の造りになっている。 現在は見ることができないので説明板の写真を載せています。 |
【下庫理】 正殿一階は「下庫理(しちゃぐい)」と呼ばれ、主に国王自ら政治や儀式を執り行う場であった。 中央の華麗な部分が「御差床(うさすか)」と呼ばれ、政治や儀式の際に国王が出御(しゅつぎょ)する玉座である。左右には国王の子や孫が着座した「平御差床(ひらうさすか)」がある。裏側には二階に通じる階段があり、国王はこの階段を降りて御差床(うさすか)についた。 |
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【一階の御差床】 国王が座る玉座。 御差床後の障子戸を開くと、奥に国王専用の階段(おちょくい)があります。国王はその階段を使って2階から御差床に出御します。 2階にも1階と同じ場所に御差床があるのは極めてめずらしいと言われています。特に2階の御差床は絢爛豪華な意匠となっています。 |
【二階の御差床】 正殿二階は日常的には王妃や身分の高い女官たちが使用した空間であり「大庫理(うふぐい)」と呼ばれていた。二階の「御差床」は国王の玉座として様々な儀式や祝宴が行われたところである。 |
【北殿】 北殿はかつては北の御殿(きたのうどぅん)、議政殿(ぎせいでん)とも呼ばれていました。 創建は1506〜1521年頃。通常は王府の行政施設として機能し、表15人衆(大臣)や筆者、里之子(さとぅぬし)と呼ばれる役人等が働いていました。 |
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【淑順門】 国王やその家族が暮らす御内原と呼ばれる場所への表門で、琉球語の古称は「みもの御門」「うなか御門」である。 |
【未開園区域】 淑順門の石段から見える場所で、白銀門が見える。 白銀門は「寝廟殿」に通じる正門で、国王だけが出入りすることが出来ました。別名「しろがね御門」。 |
【右掖門】 眼下に見える歓会門、久慶門から淑順門へ直接通じている門で、往時は淑順門から御内原へ入った。この門は歓会門から東にあり、ほぼ直線で約160メートルの石畳道が続いている。 別名「寄内御門(よすふぃちうじょう)」ともいい、創建は15世紀頃と伝えられる。 |
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【右掖門付近の石垣】 赤線より下部が、遺構で上部分が復元個所。このようにほとんどが復元されたものだと分かります。 |
【右掖門前の坂道】 | 【久慶門】 別名「ほこり御門(うじょう)」ともいう。歓会門が正門であるのに対し、ここは通用門で主に女性が利用したといわれている。国王が寺院を参詣したり、浦添から以北の地方へ行幸するとき等に使用した門であった。創建は1477〜1526年尚真王代といわれる。 順路の関係から現在は出口専用になっているが、往時は日常的に人々が出入していた門である。 |
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【寒水川樋川】 久慶門門の左手に「寒水川樋川(すんがーひーじゃー)」と呼ばれる湧水がある。またここから左手には先に見た「龍樋」がある。つまりこの辺りは城内に降った雨が地下に浸透し、再び湧水としてでてくる場所である。 |
【高所跡】 琉球国内の新開田畑の石高や貢船の貨物などに関する事務を扱う首里王府の役所跡。 |
【貝摺奉行所跡】 王家御用、献上・贈答用などの漆器製作にかかる事務及び職人を指導・監督する首里王府の役所跡。 |
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【美里御殿跡(うんざとうどぅん)】 三司官職を輩出した名門の屋敷跡。 |
【国王頌徳碑】 琉球王国時代嘉靖22年(1543)に建立された石碑である。碑文の内容は首里城から、古来より崇拝された弁ヶ嶽(後に久高島・斎場御獄の遥拝所として整備される。那覇市内最高所。標高165m)への道を石畳道にし、周辺に松樹を植えるなど参道を整備した国王尚清の徳を讃えたもの。 |
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ジャンル:沖縄そば 店名:首里そば 住所:〒903-0813 沖縄県那覇市首里赤田町1丁目7 TEL:098-884-0556 営業時間:11:30〜14:00(売り切り次第で閉店) 定休日:日曜・祝日 品名:首里そば(中)とジューシー(沖縄の混ぜご飯) 【感想】 首里城の近くで食べる場所を、検討してこのお店に決めて行きました。 行列が出来るほどのお店だそうで13時近くに行ってみると、駐車場には車があふれていましたが、一人旅でしたので並ばずに食べれました。 そばは歯ごたえがしっかりある麺で上に乗ってるソーキはやわらかく、スープはあっさりでとても美味しかったです。 ジューシーは思ったより山盛りになっていてちょっと焦りました。 |