城名 熊本城(別名:銀杏城、千葉城、隈本城)
住所 〒860-0002
熊本県熊本市本丸1-1
入場時間 11月〜3月:午前8時30分〜午後4時30分
(閉園午後5時)
4月〜10月:午前8時30分〜午後5時30分
(閉園午後6時)
休園日:12月29日〜31日
入場料 熊本城:高校生以上500円、小中学生200円
旧細川刑部邸:高校生以上300円、小・中学生100円
共通券:高校生以上640円、小・中学生240円
指定文化財 国指定史跡
国指定重要文化財:13棟
(宇土櫓、田子櫓、七間櫓、十四間櫓、四間櫓、
源之進櫓、東十八間櫓、北十八間櫓、五間櫓、
平櫓、監物櫓、長塀、不開門)
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 連結式望楼型3重6階地下1階(非現存・1600年築)
外観復元(コンクリート造り 1960年再建)
築城主 出田秀信
築城年 1469年〜1487年頃
主な改修者 加藤清正、細川忠利
主な城主 千葉城:出田氏
隈本城:鹿子木氏、城氏、佐々成政
熊本城:加藤氏、細川氏
位置 北緯32度48分21.7秒
東経130度42分21.23秒
【沿革】
日本三名城の一つに数えられる熊本城は、文明年間(1469年-1487年)に肥後守護菊池氏の一族、出田秀信が千葉城(現在の千葉城町)を築いたのが始まりです。その後、出田氏の力が衰えると大永・亨録年間(1521年-1531年)に菊池氏は鹿子木親員に隈本城(現在の古城町)を築かせて入れた。天文19年(1550年)、大友義鎮により追われ、以後は大友氏に協力した城親冬が居城としました。

天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州征伐に際し、薩摩の島津氏に属していた親冬の孫・城久基は城を受け渡し、筑後国に移った。秀吉はここに佐々成政を入れた。成政は、秀吉の指示に反して検地を強行し、肥後国一揆を引き起こす。この時隈本城は国人衆による猛攻を受けたが、城代の神保氏張が死守して落城は免れている。天正16年(1588)、成政は切腹を命じられ、加藤清正が肥後北半国(19万5000石)の城主となり隈本城に入城した。

清正は慶長6年(1601)から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築き始め、慶長12年(1607)に完成したといわれています。このとき地名を「隈本」から「熊本」と改めました。城郭は周囲9km(築城当時)、広さ約98万平方メートルで、その中に天守3、櫓49、櫓門18、城門29を持つ豪壮雄大な構えです。なかでも「武者返し」と呼ばれる美しい曲線を描く石垣は有名です。また自然の地形を巧みに利用した独特の築城技術がみられます。この城は以後、加藤家2代(44年)、細川家11代(239年)の居城となりました。

明治10年(1877)の西南の役に際しては、熊本城は指令官谷千城指揮下4000人で薩軍14000人を相手に50日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮しました。しかし薩軍総攻撃の2日前、原因不明の出火により天守閣など主要な建物を焼失。現在の天守閣は昭和35年(1960)、熊本市によって再建されたものです。


【感想】
流石に天下の名城と言われるだけの城です。敷地は広大で隅々まで見るには一日は見なければなりません。見所は何と言っても石垣でしょう。加藤時代の石垣、武者返しと細川時代の石垣の違いも見れます。
築城400年を迎え本丸御殿が復元され、一口城主などで募金を募り、今でも復元作業に力を入れていて、いつの日か当時の熊本城を見ることができるようになるでしょう。
100名城
スタンプ
スタンプ
設置場所
顎当御門、はぜ方門、須戸口門、不開門
登城日 一回目:2010年9月20日(月)
二回目:2015年9月26日(土)
三回目:2019年5月1日(水)
LINK 熊本城公式HP
熊本城-Wikipedia
庭園
城主家紋 【隅切角に違い鷹羽】
(藤原姓菊池氏族)
出田家家紋
【隅立四つ目結】
(宇多源氏佐々木氏流)
佐々家家紋
【蛇の目】
(称藤原北家道長流)
加藤家家紋
【九曜】
(清和源氏足利氏流)
細川家家紋
(忠興の時から使用)

                      

探訪 
【行幸坂手間の交差点より見た熊本城】
この場所はお花畑跡になり中央上部は飯田丸五階櫓、その右側が大天守になる。
【加藤清正像】 【下馬橋跡】
花畑邸から坪井川を渡って本丸に通じる橋である。
城内に入るとき、ここから先は馬を降りることになっていたため、この名がついている。明治35年、行幸橋、行幸坂が新設されたときこの橋は撤去された。
【長塀】(重文)
熊本城の内堀である坪井川に沿って建つ白黒のコントラストが美しい城壁である。現存する城壁の塀の中では最長
242mを誇る。
【熊本城碑】 【飯田丸五階櫓】
【飯田丸五階櫓】
加藤清正の重臣の一人である「飯田覚兵衛」が預かっていた曲輪にあることからこの名がついた。外観三層内部五階建ての櫓で石垣からの高さ14.3mで天守級の規模を誇る。
【備前堀】
加藤家の時代に、前国主佐々成政の一門佐々備前がこの近くに住み、屋敷を備前屋敷と称したところから、堀もそのように呼ばれたと伝えられる。熊本城の東から南にかけては坪井川を内堀に見立てたため、水堀はここ一ヶ所だけであった。
【南大手門】
西向きの城である熊本城本丸の全面を防御する西出丸には、南・北・西の三つの大手門のほか隅櫓などが設けられ本丸を防御していた。南から登場する際は、下馬橋(現:行幸橋)を渡り、南坂(現:行幸坂)を登り、この門から本丸へ向かっていた。
【宇土櫓】(重文) 【宇土櫓】(重文)
熊本城内に残る唯一の多層櫓で、外観は三層、内部は五階に近を備えている。古くから小西行長の宇土城天守を移築したものと伝えられ、宇土櫓の呼び名の起こりとされた。しかし、解体修理の調査などから、熊本城内で創建された櫓であることが明らかとなった。屋根瓦四万六千枚の中には四百年の歳月に耐えた加藤家の桔梗紋を持つ瓦も残っている。
【宇土櫓越しの大天守】
【加藤神社】
明治4年(1871年)の神仏分離令により、本妙寺から移されて、城内の宇土櫓前に創建された神社です。錦山神社が正式な名称ですが、ご祭神が加藤清正公であることから、一般に加藤神社と呼ばれています。清正に殉死した大木兼能、朝鮮人の金宦を合祀しています。境内から見上げる大小天守、宇土櫓の眺めは絶景です。
【北大手門虎口】 【戌亥櫓】
西出丸の北西方向にある木造二重三階の隅櫓。
【西大手門】
西・南・北の3つの大手門の中で最も格式の高い門とされます。寛永9年(1632年)に加藤家に代わって肥後に入国した細川忠利は、この門の前で衣冠束帯のまま駕籠を降り、敷居を押しいただくようにして「謹んで肥後54万石を拝領仕ります」と深々と頭をたれたと伝えられ、そのとき頭にかぶった冠の先が敷居の中央に当たったので、その後、登城する藩士は門の真中を通らず、端を通るようになったと言われています。
【西出丸西側堀】
西はなだらかな斜面が続き、弱点となるため清正は西に2重の空堀を巡らせ、空堀の間に西出丸を築きました。
「西から敵に攻撃されてもここだけで100日は持ちこたえられる。」と清正が豪語したと言われています。つまり自分がどこで戦をしていようと、100日もあれば駆けつけられるということなのです。
【二ノ丸跡】
【二ノ丸から見た天守と宇土櫓】 【時習館跡】
細川重賢が宝暦五年(1755)細川藩の子弟を教育するため開いた学校である。科目は儒学中心の道徳、社会、人生に対する知識及び武術であった。明治三年(1870)廃校。
【戌亥櫓】
【井戸と二ノ丸虎口】 【二ノ丸門跡】 【二ノ丸門跡】
【三ノ丸跡】
熊本城北西部一帯は、通称三ノ丸と呼ばれている。本来は二ノ丸の一部であるが、百關ホ垣を境に一段下がっているため、後に三ノ丸と呼ばれるようになった。
【百間石垣】
熊本城北側の重要な守りとして築かれた石垣で、加藤家重臣の飯田覚兵衛が築いたと言われています。高さは約五間ほどで長さは百一間になる。
【監物櫓】(重文)
長岡図書、別名細川刑部本邸の中にあったので、「長岡図書預り櫓」と呼ばれていましたが、明治になり陸軍が管理するようになってから、隣の長岡監物邸と取り違えて「監物櫓」と登録してしまい、それが定着してしまったものです。
監物台樹木園の中にあります。
【北側堀跡】 【監物櫓】(重文) 【埋門跡】
現在の門は冠木門形式で造られているが、もともとは屋根を持った櫓門が石垣の間にはめ込まれた埋門でした。
この埋門は、普段家臣達の城内への出入に使用されていたが、有事の際は百關ホ垣の東側を固めて新堀御門の後盾となる重要な働きをしていた。
【戌亥櫓】 【宇土櫓】(重文) 【顎当御門】
天守閣へ向かう正面入口です。この門はお城を顔に見立てたとき、ちょうど顔の前に当てる甲冑の部品の頬当てに見えることから、頬当御門と呼ばれるようになったと言われています。
【頬当御門の土橋】 【西櫓門跡】
南坂(現在の行幸坂)より飯田丸に入る城門で本来の形は不開門と同じ櫓門形式であった。現在復元が行われる状態で櫓門がありません。またここから中に入れないようになっています。
【西櫓門の埋門】
枡形内に埋門があり、この門は飯田丸へ抜けれるようになている。
【桜の馬場跡】
平成23年春に観光交流施設がオープン予定。
【未申櫓】
奉行丸の南西に位置する二階櫓。
【馬具櫓】
始めて来たときは修復中だったので二回目の来訪で見ることが出来ました。
【馬具櫓】 【櫨方門虎口】 【櫨方門(改札)】
元は加藤神社の鳥居の位置にあったが、昭和30年に解体され昭和32年に現在の地に移築された。
【竹の丸内の井戸】
朝鮮の役で飲み水にも困った清正は籠城の際に備えて、熊本城内に百二十余の井戸を掘ったと言われている。
この井戸は深さ約7mある。
【長塀】 【竹の丸】
【竹の丸から石垣越しに見る大天守】 【竹の丸石垣】 【二重虎口下側】
【二重虎口中下 【五階櫓跡】
熊本城の本丸南西側は、もともと高い崖であったので、清正はここを高石垣で築き上げた。そこで竹の丸から飯田丸への通路も、標高差が大きいため、二重に折り曲げた虎口として設計された。その二重の虎口中央に設けられたのがこの石垣と櫓で、他の部分と繋がっていないため、独立櫓とも呼ばれていた。
【二重虎口中上】
【二重虎口上側】 【二様の石垣】
ここの石垣は隅部の反り(勾配)や積み方が著しく異なっている姿が同時に観れることから「二様の石垣」と言われている。
向かって右手、隅部の勾配が緩やかな石垣が築城当初の加藤時代のものと考えられ、左手は細川時代になって増築されたもので勾配が急になっている。
加藤時代は隅部が算木積みではなく穴太積みで不揃いの石を使用しているので乱れ積みになっている。
細川時代は隅部は算木積みで比較的同じ大きさの石を使用している布積みとなっている。
【五階櫓跡】
【東竹の丸櫓群・源之進櫓】(重文) 【東竹の丸櫓群・四間櫓】(重文)
中央やや右側の櫓。
【東竹の丸櫓群・十四間櫓・七間櫓・田子櫓】(重文)
【虎口】
この奥は本丸御殿下の闇り通路に繋がっている。
【平櫓群】(重文)
左側より五間櫓、北十八間櫓、東十八間櫓
【不開門】(重文)
城の鬼門に当たる東北に位置する門で、不浄の気の出入りするところと考えられ通常は閉鎖されていた。死人や不浄物の搬出時にだけ用いられた。
【不開門】(重文)
下に進むと不開門の改札があります。
【平櫓】(重文)
不開門への坂道から侵入する敵に備え建てられた。
【源之進櫓】(重文)
【東竹の丸櫓群】
右側より、源之進櫓、四間櫓、十四櫓、七間櫓、田子櫓。
【平御櫓と須戸口門(改札)】
平御櫓は、長塀の防御線を一段高い位置から援護する役割や、須戸口門からの侵入した敵を、東竹の丸戸の連係で挟み撃ちにするための櫓であった。
【腰郭の虎口】
【平御櫓の石垣と登り石段】
平御櫓に登る石段は、敵が須戸口門を突破したときに、この石段を崩して侵入を防ぎ、敵中でも孤立した拠点として最後まで戦うために作られた櫓であったと考えられる。
【平御櫓と須戸口】 【飯田丸五階櫓と樹齢800年の樟】
五階櫓が小さく感じるほどに大きな楠。
【奉行丸】
飯田丸五階櫓から見た奉行丸。
【西櫓門にある埋門の裏側】
飯田丸側より撮影。
【数寄屋丸二階御広間】
飯田丸より撮影。
【西櫓門跡】
内側より。
【質部屋跡】
ここに人質を置くための建物があったとと思われる。
【地蔵石】
数寄屋丸横の石段を下った突き当たりに板碑が建っています。地蔵石と呼ばれるこの板碑は、ここにあった櫓門の礎石に使われていたと言われています。柱の下に線刻された仏像の一部が見えていたので、この櫓門は地蔵櫓門と呼ばれていました。
【石段と大天守】
石段は、段の高さと奥行きが少しずつ変えてあるのです。これは意図的に配置されたもので、歩幅をわざと変えさせ、スムーズな進軍を阻止するためです。
【地図石】
「打ち込みハギ」と呼ばれる方法で築かれた熊本城の石組みの中で、ここだけは特異な石の組み方をしてあります。表面を平らに加工し、隙間なく組み合わされた構図から「地図石」と古くから呼ばれてきました。熊本城の縄張りを表すとも、日本の地図とも、また熊本の城下町の地図とも言われてきましたが、明和6年(1769年)に描かれた絵図には「御待合」と記されています。つまりここは来客を遊興の場である数寄屋丸へ案内するための待合所であったという説です。
【数寄屋丸二階御広間】
主に接客用として茶会、歌会、能などを楽しんだ建物です。しかし、南面には狭間(さま:鉄砲や矢を放つ小型の窓)や石落としを備え、また西隅には宇土櫓と同規模の数寄屋丸五階櫓が建ち、実戦に十分耐えうる構造を持っていました。
【二階御広間】
書院造の座敷があり、全国の城郭建築の中でも非常に珍しいものである。
【西櫓門跡】
数寄屋丸二階御広間より撮影。
【大天守・小天守】
平左衛門丸より撮影。
熊本城の櫓などに付いている破風は反りが入っていないが、天守には破風に反りがあり、他の櫓と比べて格式が高いことを意味している。
【天守石垣と井戸】
大小天守の石垣の境目をよく見ると、小天守石垣は大天守石垣に寄りかかって積まれており、大天守の石垣が完成したあとに小天守の石垣が積まれたことが分かります。
また大小天守の石垣の曲線を比較すると、小天守の方が急な角度で立ち上がっています。両者の隅石(角の石)を比べると、大天守が同じ位の大きさの石を積んでいるのに対し、小天守は長方形の石を交互に積んでいます。これを算木積みと言い、より急角度な石垣を積むことができるのです。
1600年前後は全国的な築城ブームで、飛躍的に技術革新が進みました。つまり大天守成立後、小天守増築までの間に算木積みが開発されたことが分かります。
【五郎の首掛石】
勇将木山弾正は、天正17年(1589)の天草一揆の時、志岐麟仙に味方して仏木坂で加藤清正に一騎打ちをいどみ武運つたなく戦死した。そこで弾正の遺子五郎は成人した後清正を仇と狙い、築城人夫に身をやつして、いつかは父の恨みを晴らそうと考えていた。ところがその間に彼の素性は見破られ、井戸掘りをしているときに生き埋めにされたという。
この石は重さが1800kgあるが、築城当時に五郎が首にかけて運んだものと言い伝えられている。
【宇土櫓】(重文)
宇土櫓の屋根には鯱が乗り、大小天守閣と並んで三の天守と呼ばれることもありますが、この鯱は旧来からあったものではなく、昭和2年(1927年)に陸軍が解体修理した際に城内に保管してあった鯱を取り付けたものです。
【大天守・小天守と平左衛門丸】
宇土櫓より撮影。
【西出丸・奉行丸】
宇土櫓より撮影。
【宇土櫓北側石垣と堀】
【本丸御殿下付近より見た大天守】 【闇り通路入口(西本丸側)】 【闇り通路】
本丸御殿は2つの石垣を跨ぐように建てられたため、地下通路があります。御殿への正式な入口であり、 「闇り通路」と呼ばれています。
このような地下通路を持つ御殿建築は全国にもあまり例がありません。
【御裏台所】 【大銀杏】
熊本城は別名「銀杏城」といい、その名前はこの大銀杏に由来します。清正公が築城の際にお手植えになったと伝えられ、また清正が亡くなるときに、「この銀杏の木が天守閣と同じ高さとなったときに、何か異変が起こるであろう」と予言し、それが奇しくも明治10年(1877年)の西南戦争のときであったとも言われています。
清正は銀杏の実を食料とするために、この木を植えたとよく言われますが、残念ながらこの木は雄の木で実はつけません。
現在の木は西南戦争で燃えたあとに、芽吹いた脇芽が成長したもので、130年でこれだけの大きさに成長したのです。
【井戸】
加藤清正は「文禄・慶長の役」の際、明・朝鮮連合軍を相手に蔚山城で泥水をすすり、死馬の肉を喰らう」という苦しい籠城戦を体験したことにより、熊本城築城の際に城内に120以上もの井戸を掘ったと言われています。
この井戸もその一つで水面までの深さは約40mあります。
【大天守・小天守】
本丸より撮影。
【本丸御殿・大御台所】
2つの大きな囲炉裏があり、土間には竃などもありました。
火をおこす部屋であるため、小屋裏は煙出しの窓がある吹抜けとなっています。
【大広間】
手前より梅之間・桜之間・桐之間・若松之間と続きます。それぞれの部屋境は襖で仕切られ、左手には縁側が配置されています。
【縁側】
大広間の南側に配置された縁側は「広縁」「落ち縁」「濡れ縁」の3段で構成され、その幅は約5.5mあります。
【若松之間(手前)・昭君之間(奥)】 【昭君之間】
本丸御殿の中で最も格式の高い部屋で、慶長期の特色である鉤上段を設け、室内は床の間や違棚、付書院などを持つ書院造りとなっています。
【大天守・小天守】
本丸より撮影。
【天守入口】
本丸から橋が架かっているが本来はこの下の石段を上がって入るようになっていた。
【忍び返し】
石垣と天守の間に忍び返しと呼ばれる鉄製の棘がある。
【天守・入閣路】
小天守より見降ろした本来の入閣路と穴門も見ることが出来る。
【天守雛形】 【大天守より見た宇土櫓と本妙寺方面】
【天守西側眺望】
平左衛門丸・西出丸・二ノ丸を一望できる。
【本丸跡】 【本丸御殿】
本丸南側の眺望。本丸御殿を見下ろせる。
【大天守・小天守】 【大天守・小天守】 【長局跡】
現在は休憩所になっている。
【闇り通路出入口】
この先は本丸東側、東竹の丸の櫓群付近に出られる。
【須戸口門と平御櫓】
外側より撮影。
【長塀】
熊本城東側より撮影。
【熊本城本丸と東側櫓群】
熊本市役所展望ロビーのカフェレストラン彩より撮影。
【天守と本丸御殿】
熊本市役所展望ロビーのカフェレストラン彩より撮影。
【本丸・数寄屋丸・東竹の丸】
熊本市役所展望ロビーのカフェレストラン彩より撮影。
【坪井川と長塀(ライトアップ)】 【加藤清正公像(ライトアップ)】
夜はちと怖いです。
【坪井川と長塀(ライトアップ)】
【飯田丸五階櫓と備前堀と大天守(ライトアップ)】 【顎当御門と宇土櫓(ライトアップ)】 【宇土櫓と大小天守(ライトアップ)】
観光〜本妙寺(加藤清正公菩提寺)〜
観光〜旧細川刑部邸〜
観光〜熊本古城〜
佐々成政統治時の隈本城跡で、現在は熊本第一高等学校が建っている。西側は古城公園となっており写真は南側の石垣。
観光〜藤崎八幡宮例大祭・馬追い〜
グルメ
ジャンル:レストラン
店名:ダイニングカフェ彩
住所:熊本県熊本市手取本町1-1 熊本市役所 14F
TEL:096-328-2954
営業時間:
[ランチ]11:00〜15:00 [ディナー]17:30〜22:00
21:00(お食事ラストオーダー)
21:30(ドリンクラストオーダー)
定休日:水曜日
品名:日替わりランチ

【感想】
市役所が休みである休日は空いているため殆ど貸し切り状態になり、熊本城の眺望を一人占めに出来るのが何とも言えない。頂いたのはお得な日替わりランチです。季節の素材を使用しているのでとても味わい深く美味しかったです。
ジャンル:馬肉郷土料理
店名:けんぞう
住所:熊本県熊本市中央区下通1-8-24 七光ビルBF
TEL:050-5868-4161 (予約専用番号)
  096-356-8775 (お問い合わせ専用番号)  
営業時間:17時〜23時
定休日:不定休

【感想】
熊本と言えば馬刺し、折角なら美味しいお店で食べたいですよね。そんなときはこのお店です。何を食べても外れはないです。ただ人気のあるお店ですから予約をお奨めします。1名でもカウンター席があるので気兼ねせず楽しめますよ。
写真左上から時計回りに「馬刺し」、「揚げたての辛子蓮根」、「馬肉煮込み」、「馬汁」




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