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城名 八代城(別名:白鷺城、松江城)
住所 〒866-0862
熊本県八代市松江城町
入場時間
入場料
指定文化財 熊本県史跡
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 連結式
大天守5層6階(地階部分も含む)
小天守2層2階(地階部分も含む)(非現存)
築城主 加藤正方
築城年 元和8年(1622)
主な改修者 細川忠興
主な城主 加藤氏、細川氏、松井氏
位置 北緯32度30分26.84秒
東経130度35分59.61秒
地図 大天守
小天守
高麗門・欄干橋
三階櫓
廊下橋跡
【説明】
元和元年(1615)に一国一城令が出され、肥後国は熊本城と麦島城の一国二城体制が特別に認められていました。(島津の押えの城としての役目があったようである。)しかし、同5年の大地震によって、麦島城は崩壊しました。
熊本藩主の加藤忠広は幕府の許可を得て、城代の加藤正方に命じて徳渕の津北側に城を再建し、8年2月に竣工しました。これが現在の八代城で、明治維新まで肥後国の一国二城体制が続くことになりました。寛永9年(1632)、加藤氏が改易されると、豊前小倉藩主の細川忠利が熊本藩主となり、忠利の父・細川忠興(三斎)と四男・立孝が八代城に入城しました。忠興は八代城の整備を行い、北の丸の隠居所には名木臥竜梅を植え、茶庭を設けました。正保2年(1645)閏5月に立孝は若くして没し、忠興も同年12月に没してしまいました。藩主細川光尚は、八代城を細川家の筆頭家老でかつ将軍直臣の身分を持つ松井興長に預けました。これ以後、二代寄之・三代直之と代々松井氏が八代城を治め、八代の発展に尽くしました。

明治3年(1870)に八代城は廃城となり、同13年に八代町民の願いが適い、南北朝時台の後醍醐天皇の皇子懐良親王顕彰のために本丸に八代宮を設置することになり、同年官幣中社に列せられることとなりました。同16年に社殿が落成し、南側石垣部分を開いて参道を設け、翌17年4月に神霊鎮座の大祭が執行されました。同19年1月には良成親王が配祀され、現在に至ってます。


【感想】
熊本城の支城的な位置づけなのかと思っていましたが、とんでも有りませんでした。流石に特別に認められた城ということだけあり、石垣は立派で高さも有ります。
天守閣のあった場所などは特に小・大天守台があり造りは名古屋城を真似したようです。
石垣を見るだけでも価値があります。
登城日 2010年9月21日(火)
 LINK 八代市立博物館未来の森ミュージアムHP
八代城-Wikipedia
城主家紋 【蛇の目】
(称藤原北家道長流)
加藤家家紋
【九曜】
(清和源氏足利氏流)
細川家家紋
(忠興の時から使用
  【竹輪に九枚笹】
(清和源氏為義流)
松井家家紋

                      

探訪
【東側虎口】
南東側より撮影。
【東側虎口】
北東側より撮影。
【東虎口】
本来の本丸への登城口。
【高麗門跡・欄干橋跡】
本丸正門にあたる表枡形門の一ノ門があったところで「高麗門」または「欄干橋門」とも呼ばれました。
【本丸正門枡形】
枡形二ノ門は、「頬当門」と呼ばれていました。
【本丸南東側】
土俵が設置されてます。
【麿櫓跡】
高麗門の南側にあり、東西四間、南北七間を測り、本瓦葺の入母屋造りの屋根を持つ平櫓でした。
【塀跡】
長さ十六間の総白塗込めの塀がありました。
石垣上は柵もなく自由に歩けますが、かなり高いので注意が必要です。
【宝形櫓跡】
方形櫓とも表し、一階は四間四方、二階は三間四方の大きさの二階櫓でした。屋根の頂上に路盤宝珠をのせる宝形造りは仏事によく見られるかたちで、この宝形櫓の二階は仏殿になっていたものと思われます。
【舞台脇の櫓跡
舞台脇の櫓は、梁間四間、桁行九間の建物で、再建後は桁行十二間となったため、十二間櫓とも呼ばれます。本瓦葺、入母屋造りの屋根をもち、二層二階の櫓です。
この櫓と宝形櫓の間には梁間三間、桁行三十間の三十間櫓と呼ばれる平櫓がありました。
【舞台脇の櫓跡 【本丸南側堀】
【八代城跡碑】 【八代宮参道】
この橋は、明治16年に八代宮のために石垣を開けて出来た橋で、築城時にはありませんでした。
【八代宮】
【月見櫓跡】
本丸の南西隅に立つ月見櫓は二階建ての櫓です。
【三十八間の長塀跡】
月見櫓から小天守の間には石落としを二ヶ所持つ三十八間の長塀がありました。
【小天守入口】
【小天守跡】
小天守は、東西九間、南北四間半を測る外観二層、内観三階(地階部分を含む)でした。
【小天守地階部分(入口)】
当時は大天守下之平場から石段を登り小天守の地階に入り、渡櫓を通って大天守の地階へと通じていました。
【渡櫓跡】
小天守と大天守を結んでいた。
【大天守入口】 【大天守地階】 【小天守跡】
大天守跡から小天守の入口を撮影。現在は石段がなくなっている。
【大天守跡】
大天守は、東西十間、南北十一間を測る外観五層、内観六階(地階部分を含む)でした。築城から53年後の寛永12年(1672)2月19日の落雷により焼失。以後再建はない。
【唐人櫓跡】
唐人櫓は大天守の東側に位置し、東西四間、南北三間を測る平櫓でした。
【埋門跡】
埋門は本丸から北の丸へ通じる裏枡形門の二ノ門です。
【廊下橋門跡】
廊下橋門は、本丸の勝手口裏枡形門の一ノ門です。
【廊下橋跡】 【天守台】
【天守台】
左側が大天守、右側が小天守になる。
【九間櫓跡】
九間櫓は、本丸の北側中央に位置し、東西九間を測る平櫓でした。
【三階櫓跡】
三階櫓は本丸の北東に位置し、東西六間、南北五間の三層三階の隅櫓で大天守に次ぐ高層櫓です。




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