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城名 岡城(別名:臥牛城)
住所 〒878-0013
大分県竹田市大字竹田2889番地
入場時間 午前9持〜午後5時
休場日:12月31日〜1月3日
入場料 高校生以上:300円、小中学生:150円
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 梯郭式山城
天守構造 不明(1596年築・非現存)
複合連結型層塔式(1774年再・非現存)
築城主 緒方惟義
築城年 文治元年(1185)
主な改修者 志賀貞朝、中川秀成
主な城主 志賀氏、中川氏
位置 北緯32度58分9.18秒
東経131度24分29.05秒
地図 大手門跡
太鼓門櫓跡
三重櫓跡
下原門跡
近戸門跡
100名城
スタンプ
【沿革】
岡城は、文治元年(1185)大野郡緒方荘の武将緒方三郎惟栄が源頼朝と仲違いをしていた弟 義経を迎えるため築城したと伝えられるが、惟栄は大持浦(兵庫県)を出航しようとして捕らえられ、翌年上野国(群馬県)沼田荘に流されていた。

建武のころ豊後国守護大友氏の分家で大野荘志賀村南方に住む志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令をうけ、岡城を修理して北朝と戦ったとされるが、志賀氏の直入郡への進出は、南北朝なかばの応安2年(1369)から後で(「豊後国志」巻六 直入郡の項による。直入郡代官職・検断職を預けられた以降)、その城はきむれ(騎(木)牟礼)の城であった。のちに志賀氏の居城は岡城に移った。

天正14年(1586)から翌年の豊薩戦争では島津の大軍が岡城をおそい、わずか18歳の志賀親次(親善)は城を守り、よく戦って豊臣秀吉から感状を与えられた。しかし、文禄2年(1593)豊後 大友義統が領地を没収されると、同時に志賀親次も城を去ることになった。

文禄3年(1594)2月、播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成が総勢4千人余で入部。築城にあたり志賀氏の館を仮の住居とし、(「中川御年譜」に「志賀湖左衛門親次が旧居に御住居」とあり、戦国時代の城郭を基礎として近世城郭の整備・城下の町割りなどをおこなった。)急ぎ近世城郭の形をととのえ、本丸は、慶長元年(1597)に完成、寛文3年(1663)には西の丸御殿がつくられ城の中心部分とされていった。(岡城は山城的殿舎、平山城的殿舎(本丸二の丸、三の丸)、平城的殿舎(西の丸)で構成され、これらが一体となっていることは近世城郭史上特異な城である。)

現在残されている城郭は、明治に至るまで岡藩を統治した中川公によって築城されたもので、本丸、二の丸、三の丸、西の丸などの主な曲輪からなっている。

趣味人であった第5代藩主 中川久通は、城の北側にある絶壁に弦長約3m三日月を彫らせ、月のない夜も明かりを灯し、月見の宴を楽しんだ。

明治2年(1869)版籍奉還後の4年(1871)には、14代277年間続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住し、城の建物は7年(1874)大分県による入札・払い下げで(明治7年「大分県布告書」で県内五城の建造物、岡城は69棟が入札に付されている。)すべてが取り壊された。


【感想】
城域が広く、料金所で御廟所の方は見るところがないので西ノ丸と中枢部だけ見れば十分と言われましたが、折角来たのだから搦手側の御廟所の方まで見てきました。見るところがないとは言われましたが城好きには見るところは多くありました。時間があれば搦手側も見ておくといいでしょう。
しかし、城域が広い立派なお城です。
駐車場横にあるお店の中では、CGで復元した岡城の放映もしていましたので、実際に見てきた場所と照らしながら見ると面白かったです。


スタンプ
設置場所
観覧料金所(総役所跡)
 登城日 2010年9月24日(金)
LINK 竹田市公式HP-岡城跡
竹田市公式HP・観光情報・岡城
岡城(豊後国)-Wikipedia
城主家紋 【三つ鱗】
緒方家家紋
【抱き杏葉】
(秀郷流大友氏支族)
志賀家家紋
【中川久留子】
(清和源氏頼光流)
中川家家紋

下は抱き柏で「中川柏」と呼ばれている。

                      

探訪

※現地案内板(加筆あり)
【鉄砲方詰所跡】
岡城への登城口近くにあり、現在は売店が建っている。
【大手口と城址碑】
登城は大手口と近戸口がある。
【登城道】
【大手門】
大手門の大きさに驚くが、こちら側に出来たのは築城の名手藤堂高虎に助言されたためと言われている。
【侍番所跡】
大手門手前に位置し、城中の出入りにはかなり注意が払われていたことが分かる。
【大手門礎石】
門扉も大きいためか、門扉に車輪が付いていたようで、車輪が通る溝が作られている。
【大手門虎口】 【旧大手門】
現在の向きにかえられる前までは反対側のこの旧大手門から出入りしていた。
【朱印状倉跡】
【中休所跡】 【家老(但見)屋敷跡】
発掘調査中でした。
【城代屋敷跡】
【籾倉跡】 【三ノ丸石垣】
岡上最大のビューポイント(西中仕切り跡手前)、折のある石垣は見事。
【西中仕切・貫木門跡】
【貫木門礎石】 【鐘櫓跡】 【西中仕切】
内側より撮影。写真手前の石垣が鐘櫓台になる。
【太鼓櫓門跡】
城の中枢である本丸・二ノ丸・三ノ丸への関門として重要であり、その出入口については特に入念に管理されていた。
【太鼓櫓跡】 【搦手へ続く道】
城の中枢部を通らずに搦手口へ通じる道が太鼓櫓隣にある。
【太鼓櫓門跡】 【三ノ丸跡】
三ノ丸は使者の間、小姓の詰所などと三十畳の広間の存在から、藩主の政務が中心的に行われた曲輪と考えられる。
【武具庫跡】
三ノ丸にある。
【本丸石垣】
右端が三重櫓台になる。
【二ノ丸虎口】 【二ノ丸虎口の門跡】
名称表示はなかったが四脚仕切門になると思われる。
【二ノ丸・空井戸】
井戸の深さは73m、穴の直径入口付近は3m、下部は2m。入口より8mまでは石で巻下し、底には水はない。北側の石垣の隙間から風が通っている。そこより1.5mの箇所に東方向に横穴があり観音像らしきものが安置されている。
【二ノ丸に建つ休憩所らしき建物】
入口には「日本名水百選 竹田の水 泉水」と書かれている。
もう一方には「竹田の味にぎり飯」とある。
【二ノ丸跡】
二ノ丸は、数寄屋、月見櫓などがあったことから遊興的な曲輪であった。
二ノ丸の先端部分に月見櫓があった。
【滝廉太郎像】
少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治34年(1901)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表している。
【本丸虎口石段】 【本丸虎口石段途中にある排水設備】
【本丸虎口門跡】 【本丸跡】
本丸は、天守にあたる三重櫓や御金倉のほか、藩主の居住を中心とした殿舎で構成されていた。
【三重櫓跡】
【御金倉跡】 【本丸に建つ神社】 【三重櫓下の石垣】
【御金倉下石垣】 【東中仕切跡】 【米倉跡】
【清水門跡】 【三楽亭跡】 【荘獄社跡】
【御廟所跡】
藩主の先祖を祀るなどの施設があった。
【下原御門跡】
内側より撮影。
【下原御門跡】
外側より撮影。
中川氏が入城した文禄3年までは、十川が城下町で、ここが大手門でした。その後、加藤清正の指示により大手門を西側の現在地(旧大手門)に移したと言われます。
【下原御門跡・礎石】 【三ノ丸から西ノ丸へ向かう通路】
家老(但見)屋敷脇を北進する。
【賄方跡】
【中川覚左衛門(家老)屋敷跡】 【普請方跡】 【近戸門跡】
【近戸門礎石】 【家老(民部)屋敷跡】 【西ノ丸下の井戸】
【西ノ丸下の井戸】 【稲荷社跡】
案内表示碑には稲荷社と刻まれているが、案内書によると「秋葉社跡」になっている。
【西ノ丸御殿跡】
当初三代藩主・久清によって普請され、隠居後の居住地として用いられた。元禄二年(1689)以後には、公式行事などが行われるようになり、藩主の居住所または藩政の執務などにも使われるようになり、江戸後期には、西ノ丸が藩政の中心的場所ともなった。
【西ノ丸・新屋敷門跡】 【西ノ丸・新屋敷門下通路】 【西ノ丸・東門跡】
グルメ
ジャンル:カレー
店名:カレーハウス りんご屋
住所:大分県竹田市大字会々2332-1 (豊後竹田駅前)
TEL:0974-62-2290
営業時間:?
定休日:第1・3月曜日&毎週火曜日
品名:ビーフカレーとカレーパン

【感想】
駅前にひっそりとあるこのお店、ネット検索でHP発見したのですが、オーナーが2010年で代っているそうです。
そのため定休日と電話番号が異なっているかもしれません。

ビーフカレーは味わい深くコクがあり美味しかったです。また移動の列車の中でお腹が減ったら食べようとお土産として購入したカレーパン(\100-)が、絶品でもう一つ購入しておけばよかったと後悔するほどでした。絶対おススメです。

お店で列車の時間までお店の方や地元の方と話も弾み楽しいひと時でした。




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