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城名 中津城(別名:扇城、小犬丸城、丸山城)
住所 〒871-0058
大分県中津市二ノ丁本丸
入場時間 午前9時〜午後5時
年中無休
入場料 高校生以上400円、中学生以下:150円
指定文化財
城郭構造 梯郭式平城、水城
天守構造 不明
模擬天守(独立式望楼型5重5階 1964年鉄筋コンクリート造り)
築城主 黒田孝高
築城年 天正15年(1587)
主な改修者 細川忠興
主な城主 黒田氏、細川氏、小笠原氏、奥平氏
位置 北緯33度36分23.88秒
東経131度11分11.12秒
地図 天守閣
大鞁櫓
黒田・細川石垣
三斎池
西門跡
【沿革】
黒田考高(如水)は豊臣秀吉の命により九州を平定し、中津16万石を拝領して天正16年(1588)、中津川河口周防灘に臨むこの城を築く。約30年の歳月をかけて細川忠興が完成させた。城郭面積は23,287坪、地形が北より南方に扇状をなしているので、別名を扇城という。日本三水城にも選ばれていて、本丸石垣、内濠は当時のままで水門より海水が入って潮の満干で濠の水が増減している水城である。考高の長子である黒田長政は秀吉の命により文碌1年(1592)兵5千を率いてこの地より朝鮮に出兵、慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いの功績により福岡52万石に移る。豪傑であった後藤又兵衛、黒田節の母里太兵衛などは当時の物語りである。次に細川忠興が京都田辺より32万石で入城。忠利が寛永9年(1632)に大阪役の後、熊本54万石に移封。小笠原長次が兵庫龍野より中津8万石で入城。しかし亨保1年、亡びて、奥平昌成が享保2年(1717)丹後宮津より10万石で入城。以来、奥平家は7代目〜14代目までの155年間を中津城主として続き、明治2年に廃藩される。西南戦争ですべて焼失したが、現在の天守閣は昭和39年(1964)に奥平氏の子孫と中津市の協力の元に再建して、奥平家の衣装や刀剣などを展示している。

中津城が歴史に登場するのは、天正15年(1587)考高が豊臣秀吉に豊前の六群を与えられ、山国川の河口デルタである中津の地を選び、翌年築城を始めたことによる。軍事的にも西に山国川、南と東に大家川(のち忠興の築いた金谷堤-かなやつづみ-によってふさがれた)北に周防灘を控えた要害の地であった。同時に瀬戸内海に面し、機内への重要な港でもあった。考高は、闇無浜から自見・大塚一帯を含む大規模な築城に取りかかったが、度重なる戦のため、なかなか工事もはかどらないまま慶長5年(1600)関ヶ原の戦いにの功によって筑前52万石への加増転封し中津を去った。黒田氏の後には、細川忠興が筑前一国と豊後国の国東・速見二群の領主として入部した。忠興は最初中津城を居城とし、弟の興元を小倉城においた。慶長7年忠興は、居城を小倉城に変更し大規模な小倉城築城を始めた。元和元年(1615)一国一城令が出され、忠興は慶長年間より行っていた中津城の普請をいったん中止した。小倉城以外に、中津城も残されるよう老中に働きかけた結果、翌2年中津城の残地が決まった。元和6年(1620)家督を細川忠利に譲った忠興は翌7年 中津城に移り、中津城や城下町の整備を本格的に行った。元和の一国一城令や忠興の隠居城としての性格のため、同年本丸と二の丸の間の堀を埋め、天守台を周囲と同じ高さに下げるよう命じている。


【感想】
模擬天守とはいえここの天守はもうすっかり景色になじんでますね。
石垣は穴太積で黒田時代と細川時代の比較が出来て面白い。
日本三大水城の一つで、中津川がすぐ傍に流れているので、その辺は往時を偲ぶことが出来ました。
石垣も町中に点在して残るようです。
城と一緒に中津市内を見て周るのに駅観光案内所で無料の自転車を借りて周るのをお薦めします。


登城日 2010年9月25日(土)
 LINK 中津市公式HP
中津城-Wikipedia
城主家紋 【藤巴】
(宇多源氏京極氏流)
黒田家家紋
【九曜】
(清和源氏足利氏流)
細川家家紋
【三階菱】
(清和源氏義光流)
小笠原家家紋
軍配団扇
(村上源氏赤松氏流)
奥平家家紋

                      

探訪
【中津川岸側石垣】 【黒田本丸石垣と細川時代の石垣】
右側の石垣は黒田考高(如水)時代の本丸跡の石垣である。
左側の石垣は、細川忠興時代のもので、忠興自慢の石垣である。写真を撮った場所はお花畑跡になる。
【天守閣】
北東側より撮影。
堀は薬研堀で石垣は穴太積。
【天守閣と大鞁櫓】
定番のアングル、南側より撮影。
【奥平神社】 【天守閣と大鞁櫓】
本丸より撮影。
【天守閣】
模擬天守ですが既になじんでます。
【大鞁櫓】
城主の馬具などを収容するところ。
【天守からの北東方向の眺望】
中津川河口。
三斎池】
忠興が城内の用水不足を補うため、城内への水道工事を行った。工事は、山国川の大井出堰(三口)から水道を城内まで導く大工事であった。その水をたたえたのがこの池であり、観賞や防火用水としても使用された。忠興の隠居名”三斎”の名を冠して「三斎池」と呼ばれます。
【独立自尊碑】 【増築された石垣】
城の南側になる。中津城の石垣は築城当初は今より低く、幅が狭いもので堀側だけでなく、城内側にも石垣があったことが分かっています。石垣の中心部に見える石垣が築城当時の石垣で、城側方向に拡張されていた。そのため堀に面した石垣は昔のままの姿で見られます。
【本丸南側石垣】 【本丸南側石垣】 【二ノ丸跡】
【二ノ丸-御厩・馬場跡】
現在は二ノ丸公園となっている。
【三ノ丸跡】 【中津川対岸より天守閣】
【小祝橋上より天守閣】 【西門跡】
中津城の西南隅に位置する西門は、大手門と同じ「矢倉門」型と思われる。搦手門に当たる。
【西門跡裏の堀】
【西門・枡形】
観光〜合元寺〜

通称「赤壁」といわれるこの寺は浄土宗西山派 開山空誉上人は天正15(1587)年、黒田義高(如水)に従って姫路から中津に来ました。その後天正17年4月、義高が地元の豪族でる前領主の宇都宮鎮房を謀略結婚により中津場内に誘殺したとき、その従臣らが中津城を脱出しこの寺を拠点として奮戦し最後をとげた。以来門前の白壁は幾度塗り替えても血痕が絶えないので、ついに赤色に塗られるようになった。当時の激戦の様子は現在も庫裏(くり)の大黒柱に刃痕が点々と残されている。また、戦死した宇都宮家の家臣は合葬し寺内の延命地蔵菩薩堂に祀り菩提を弔った。その空誉上人は宇都宮鎮房の庶子であったといわれ、文武の道に秀で世人の祟敬が篤かったため、後事をおそれ慶長16年黒田長政に福岡城で誘殺されたという哀しい歴史を秘めている寺である。

観光〜円応寺〜

円応寺は黒田、細川、小笠原と各藩主にゆかりの寺である。江戸中期に寂玄(じゃくげん)上人が河童をほとけの道に入らせ修行の末、河童の頭目3匹に戒名をさずけた。河童達は上人への御恩返しに寺を火災から守ったという。この寺の瓦には、珍しく「水」という印の瓦が葺かれていて、水乞いの祈りが捧げられたという。境内に「河童の墓・河童の池」があって今でも寺の法要のときには必ず河童の頭目の回向を行っている。寺がさずけた戒名は現存し、その頭目達の戒名を掘った火難水難除けの護府の版木も残されている。

観光〜福沢諭吉生家〜
福沢諭吉は天保5年(1835)に大阪の中津藩蔵屋敷で13石2人扶持の下士、福沢百助の次男として生まれましたが、1歳と6ヶ月の時 父が急死したため天保7年(1836)秋に、母子6人で大坂の中津藩蔵屋敷から藩地の中津に帰って来ました。14歳になって初めて儒学者 白石照山の塾に入り、安政元年(1854)、19歳の時に蘭学を志して長崎に行き、翌年からは大阪の緒方洪庵の塾で猛勉強しました。安政5年(1858)には、中津藩の蘭学教師として江戸に上り、蘭学塾を開きました。これが後の慶応義塾大学のはじまりです。意外に知られていない事は、明治25年(1892)には北里柴三郎を助けて伝染病研究所の設立に尽力し、明治27年(1894)に耶馬渓の競秀峰が売却される事を耳にし、これを買収しました。自然保護の先駆といえますね。最初の住んでいた家は残っていませんが、この宅跡にその家がありました。今残されている旧居は後年に移り住んだものです。
観光〜自性寺〜
自性寺は奥平藩歴代の菩提寺で藩祖信昌公が、三河新城にいた時、金剛山万松寺と称して創建。その後いく度か藩の転封に従い、移り、享保2年(1711)、6代藩主昌成公の時、中津に転封。延享2年(1745)、自性寺と改称します。
この寺にもなぜか河童の墓がありました。
奥平家の墓には門で仕切られた場所にありました。
門を入って一番奥の大きな五輪の塔は奥平家12代藩主(中津7代)昌猷(まさみち)公の墓で唯一中津で亡くなった殿様です。
他に中津初代昌成公、3代昌鹿公、5代昌高公の子供たちの墓があります。


グルメ
  ジャンル:食事処
店名:和風味処 鬼太郎
住所:大分県中津市豊田町2−16(3丁目)
TEL:0979-22-0304
営業時間:
午前11時〜午後2時
午後5時〜午後10時
オーダーストップ午後9時30分
定休日:月曜日
品名:「元祖・鱧かつ丼(小鉢・汁物付)」
   「鬼太郎名物とり唐揚」

【感想】
「とり唐揚」は、ビールのつまみで頼んだつもりが、出てきてびっくり、これですか?と思わず店員に聞いてしまいました^^;
とてもジューシーで唐揚げとは思えないほど柔らかったです。正直どうやって食べるのか悩みましたよw

鱧かつ丼も頼んでいたので、ビールは1杯で止めておき、「鱧かつ丼」が出てきました。小鉢には「鱧の湯引き」が付いてきて、大満足でした。




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