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城名 岩屋城
住所 〒818-0119
福岡県太宰府市連歌屋
入場時間
入場料
指定文化財
城郭構造 山城
天守構造 不明
築城主 高橋鑑種
築城年 天文年間(1532年〜1554年)
主な改修者
主な城主 高橋氏
位置 北緯33度31分33.4秒
東経130度31分13.06秒
地図 本丸跡
櫓台跡
城址碑
ニノ丸
高橋紹運公胴塚
【沿革】
築城は天文年間(1532年〜1554年)に大友氏の武将・高橋鑑種と伝えられ、立花城と共に大友家の筑前支配の拠点であった。しかし、高橋鑑種は主君・大友宗麟の傲慢な振る舞いに憤り、反旗を翻したために城を逐われ、大友家の宿老吉弘鑑理の弟で吉弘鎮種が高橋氏の名跡を継いで「高橋鎮種」と名乗り宝満・岩屋の両城主となった。

天正13年(1585年)、立花城主立花道雪の死去後、長男統虎(後の宗茂)が道雪の養子として城主となり、次男の統増が高橋家の本城である宝満城に入城し、一族三人で大友家の筑前での拠点防衛に就く。

天正14年(1586年)7月13日、筑前一帯を平定し、関白秀吉の九州襲来を阻まんとする島津氏が総勢2万にも及ぶ大軍で攻め寄せ、大宰府政庁跡の東隣にある観世音寺に陣を設けた。紹運(高橋鎮種の出家後の名)は七百余名と共に籠城。2週間の間頑強に抵抗したものの、各出城や砦が次々と陥落、虚空蔵砦を守備する福田民部少輔も討死するに及んだ。また、城主紹運も自ら薙刀を取り敵中に入ったが力尽き、敵陣に矢止めを乞うたのち高櫓の上に登り自害。残された将兵もあとを追い玉砕、天正14年7月27日落城。

紹運が高櫓の扉に書き残したとされる辞世の歌は「屍をば岩屋の苔に埋みてぞ 雲居の空に名をとどむべき」。


【感想】
好きな武将の一人、高橋紹運が城主の岩屋城。島津の大軍を2週間も引きつけていたこの城の本丸に立つと城下を眼下に見ることが出来る。島津軍に囲まれていた光景を想像するとはっきりと見えるだけにどんな思いで籠城していたか深く考えずにはいられない。
本丸の「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑が全てを物語ってくれる。
登城日 2011年5月3日(火)
 LINK 岩屋城-Wikipedia
城主家紋 【抱き柊】
(大蔵氏流)
筑後高橋家家紋
【抱き杏葉紋】
(大友系高橋氏の家紋)
高橋家家紋

                      

探訪
【本丸登城道】 【堀切跡】
登城道が堀底になる。
【本丸】
 
【岩屋城址碑】 【岩屋城址碑と本丸】 【本丸下の腰曲輪】
【本丸からの眺望】
眼下に水城、都府楼跡、天満宮が見え、天気が良ければ宝満山まで一望出来る。
【大宰府政庁跡】 【本丸から見た二ノ丸】
櫓台跡】
本丸北側には2mほど高台があり、ここには櫓があった。
【本丸】 高橋紹運公之墓碑】
二ノ丸の入口に置かれている。
二ノ丸】 【高橋紹運公胴塚】
周囲には同じくして亡くなった将士の墓もある。




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