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※赤線は登城経路ですが大体の位置を示すものです。
城名 月隈城(別名:丸山城、永山城)
住所 〒877-0008
大分県日田市丸山2丁目
入場時間
入場料
指定文化財 なし
城郭構造 梯郭式平山城・陣屋
天守構造 なし
築城主 小川光氏
築城年 慶長6年(1601)
主な改修者 石川忠総
主な城主 小川氏、石川氏
位置 北緯33度19分56.28秒
東経130度56分10.28秒
地図 天守台跡
本丸跡
二ノ丸跡
三ノ丸跡
日田陣屋跡
【歴史】
−月隈城−
日田三丘の一つ月隈山に、慶長6年(1601)小川光氏が築城しました。その時の城の名は「丸山城」。街道を整備して城下町を発展させた。
元和4年(1618)には、石川忠総が入城し、「永山城」と改称、一部石垣造りの城に改修し、城下であった丸山町を現在の位置に移し、豆田町に改名した。寛永10年(1633)に中津藩預かりとなる。
その後、寛永年間に日田藩は解消され天領となり、永山城は廃城とされ、麓(城の南側)に日田陣屋(日田代官所)が築かれた。
以後一時松平氏の領地となったが、基本的には天領であり、城部分は使用されることは無かった。
貞享3年(1686)に松平氏が転封されると永山城は廃城となりました。

明治になると、旧城の三の丸に日田県庁が置かれ、日田県が大分県に合併となると、小学校や裁判所が置かれた。昭和になると、裁判所は移転し、三の丸の半分は公園となっている。

−日田陣屋(日田代官所)−
寛永16年(1639)に大名預けであった日田は、再び幕府の直轄地となり、幕府代官として小川藤左衛門正長・小川九左衛門氏行が派遣された。同園「永山布政所」が開設され「日田代官所」が成立した。
また、明和4年(1767)には日田代官から西国筋郡代へと格上げされた。


【感想】
日田天領として有名な場所だが、城跡としては城下からも見える櫓台の石垣が期待を持たせてくれる。本丸付近は石垣も残り昔を偲ぶことが出来るが、見るところは少ない。
月隈城として呼ばれているが実際には永山城が本来の名のようで史実で月隈城と呼ばれているのは廃城後のようです。
日田は城よりも豆田町(城下町)をゆっくりと見て回る方が有意義でしょう。


登城日 2013年9月29日(日)
LINK 永山城-Wikipedia
城主家紋 【丸の内沢瀉
(藤原姓/宇多源氏)
小川氏家紋
【丸に笹竜胆】
(清和源氏義家流)
石川氏家紋

                      

探訪
【月隈城遠景】 【外堀】
切込み接ぎの石垣は、県庁と知事官邸を建てたころ(明治時代)に建造されたものといわれている。
【大手門跡】
ここにかかる石橋も明治時代のものらしい。
 
【三ノ丸跡・大手】 【三ノ丸跡】

【山腹にある横穴】
これは古墳時代の横穴式墓穴です。
【登城口】 【平場】
石段をおぼって行くと途中にある平場、腰曲輪か?
【帰安碑】
金毘羅社建立のため永山城跡を整備した時、山腹にいくつもの横穴が見つかり、中には古い人骨が散乱していた。このときの塩谷代官が、それらの骨を集めて山下に改葬しその上にこの碑を建てた。その後碑のみ山下からこの場所に移設された。
【二ノ丸跡】
二ノ丸跡には月隈神社がある。
【本丸櫓台】
天守台跡ともいわれる。
【本丸虎口と本丸櫓台】
【本丸跡】
本丸櫓台とは段差もなく平坦な場所である。
【天守台跡】
本丸に一段高くなっている場所があり、ここが天守台なのではと思われる。丸石で組まれた石垣も見ることが出来る。
【天守台跡上】
【本丸櫓台上からの眺望】 【日田陣屋跡】
日田代官所・永山布政所とも呼ばれる。
【陣屋平面図】
観光〜咸宜園址・豆田町〜
ジャンル:B級グルメ
店名: 味の珍さん
住所: 大分県日田市三本松1-7-21
TEL: 0973-22-2504
営業時間:11:00〜20:00
定休日:不定休

麺はパリパリ、もやしがシャキシャキと両方の食感を楽しみながらソースの深い味わいを楽しむことが出来ます。駅から月隈城址を目指す途中にあるので手ごろでよいです。
また、ご主人の人柄が良いです。




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