城名 東福寺城(別名:長谷場城)
住所 〒892-0802
鹿児島県鹿児島市清水町22-10
入場時間
入場料
指定文化財
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 長谷場永純
築城年 天喜元年(1053)
主な改修者 島津氏
主な城主 長谷場氏(矢上氏)、島津氏
位置 北緯31度36分28秒
東経130度34分14秒
地図 本丸
段曲輪
堀切
【歴史】
海側は絶壁で、他方のJR線路沿側も急な斜面になっているため、山全体が天然の山城となっています。この城は、藤原純友から4代目にあたる長谷場永純が天喜元年(1053)に築いたもので三州(日向、大隅、薩摩)としては初めての城とされています。また、長谷場氏は、その頃の船着場の辺りに春日神社を建立したといわれています。

南北朝時代(1336-1392)には、この城めぐって激しい戦いが行われました。この頃鹿児島を本拠にしていた長谷場、矢上、中村、上山、谷山の各氏は、南朝軍に加わり、出水の山門院から鹿児島入りした島津氏は、北朝軍に属しました。両者は激戦を続けたましたが、暦応4年(1341)東福寺城に籠もる鹿児島郡司矢上氏一族を攻め落としたのです。5代島津貞久とその子氏久は、およそ40年間にわたって、この東福寺城を根城に大隅地方にまで勢力をのばしました。

島津氏が鹿児島に本拠を置いたのは、この東福寺城からで、その後、8代島津元久の時代に清水城に移り、内城、鶴丸城が築かれ、城下が南へ伸びていった様子がこの地から一望できます。

(城内説明板を編集)


【感想】
公園となり整備保存されているのだが、園路などにより城跡が改変されている。
曲輪の形状は比較的良好に残っていると思われる。

公園の来園者は案内図の左側の方にしか居らず、東福寺城跡の主要箇所である右側にはほとんどいません。それも右側部分は植物も鬱蒼と茂っており薄暗く野生のイノシシ注意という看板がいたるところに建っています。
ここに夕方以降に来る場合は、注意したほうが良さそうです。
特に井戸周りは水場なので危険かもしれません。


登城日 2014年6月20日(金)
LINK 鹿児島市観光サイト-東福寺城-
東福寺城-Wikipedia-
城主家紋 【丸に十字】
(惟宗流)
島津氏家紋

                      

探訪

※案内板より(加筆あり)
【東福寺城遠景】 【肝付兼重奮戦の跡碑】@
南北朝の動乱が起こると兼重が肝付一族を率いて南朝側に立って戦いました。碑文には、宮崎県の三俣院高城を陥された後、興国元年(1340)8月に東福寺城に入ると長谷場秀純と共にあり、島津軍と8ヶ月にもわたって奮戦した。と記されている。兼重の墓は肝付町の旧盛光寺墓所にある。
【第一駐車場】A
こちら側は柴崎城と呼ばれていたらしい。
 
【東福寺城側の石垣】B 【東福寺城側の石垣】B
下側は現代のもの。
【東福寺城と柴崎城を分ける堀切】C
公園にするためにコンクリートで固められているのが残念である。
【東福寺側入口】D 【東福寺城の石垣】D 【桜の広場】E
昔はこの広さであれば馬場であったのかもしれない。
Fの曲輪の西側土塁】 【腰曲輪】F 【園路】G
曲輪を移動するための帯曲輪であったと思われる。
【段曲輪】H
本丸と思われる場所の下は段曲輪となっているが、公園化のため整備されすぎてしまっているのが残念である。
【東福寺城址碑】H I曲輪】
奥には昔、墓が置かれたような壇がある。
【壇裏の土塁】I 【腰曲輪】J 【段曲輪の石垣】K
これは公園整備時の物のようである。
【段曲輪】L 【腰曲輪】M 【腰曲輪下】M
【第二駐車場】N 【水取手(井戸跡)】O
公園内の東福寺城側には野生のイノシシが出没するしく注意が必要だがこの場所が飲み場になっているようだ。
【桜花園橋】C
東福寺城と柴崎城を分ける堀切の上に掛かる橋。
【堀切】C 【アコウの広場】P 【東郷平八郎銅像】Q
【東郷元帥が今も見守る鹿児島港】 【東郷元帥が今も見守る桜島】 【多賀神社鳥居】R
【多賀神社拝殿】R 【多賀神社鳥居跡と狛犬】R 【東郷元帥の墓】S
故郷である鹿児島に置かれた墓には遺髪が納められている。
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