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城名 | 諫早城(別名:高城、亀城、伊佐早城) | ||
住所 | 〒854-0016 長崎県諫早市高城町 |
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入場時間 | 御書院入場門 春季(3〜5月)・秋季(9〜11月):閉門月曜日(祝日を除く) 夏季(6〜8月)・冬季(12〜2月):閉門月〜金(祝日を除く) 開放時間:午前10時〜午後4時 ※学校行事により臨時閉門あり |
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入場料 | − | |||
指定文化財 | 国指定天然記念物 (諫早市城山暖地性樹叢) |
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城郭構造 | 山城というよりは平山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 西郷尚善 | |||
築城年 | 文明年間(1469〜1487) | |||
主な改修者 | 諫早氏 | |||
主な城主 | 西郷氏、龍造寺氏、諫早氏 | |||
位置 | 北緯32度50分42秒 東経130度02分48秒 |
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地図 | 1 | 本丸上段 | ||
2 | 本丸下段(二ノ丸か?) | |||
3 | 高矢倉 | |||
4 | 東の丸 | |||
5 | 大手門跡 | |||
【歴史】 南北朝時代には、伊佐早地方は船越城の伊佐早氏と宇木城の西郷氏の勢力に分かれていた。 戦国時代になると西郷尚善(ひさよし)の時に伊佐早次郎入道を討って、宇木城から諫早へ進出して船越城に入り、築城年代は定かではないが文明6年(1474年)頃にこの地に諫早城(高城)を築いた。 天正15年(1587)、4代目西郷信尚は、全国統一を目前にした豊臣秀吉の九州征伐の参陣命令に従わなかったことにより、龍造寺家晴が率いる3,500の兵に総攻撃を受ける。信尚は籠城し必死の抵抗をするが落城し、やむなく城の搦手から埋津川を渡り、山伝いに島原半島の方へ落ち延びた。その後、信尚は妻の実家である平戸に逃れ、その子純久は五百石を与えられ松浦氏に仕えたと伝えられている。 それから三ヶ月後、西郷家の生き残った武士たちは、再び集結して高城を取り返すため夜襲を掛けた(西郷一揆)。この戦いは、14日間にも及んだが失敗に終わり、夜襲を計画した73人は後日桜馬場で開催された「祝賀大踊り」に誘き寄せられ捕えられた。(多分処刑されたのでしょう) 諫早氏は、独立した大名であったが家晴の子・諫早直孝(二代目の時に姓と地名を「諫早」とした)が病身で江戸での奉公が出来ないとの理由から大名を破棄し佐賀藩の家老となった。 諫早氏は諫早城(高城)を居城としていたが、元禄12年(1699)5代諫早茂門のときに老朽化が進む城の維持が困難となったため、城を廃してその東麓に新しく陣屋(諫早陣屋)を築いた。その後は明治に至るまで代々諫早氏が治めた。 廃藩置県後は陣屋の建物をそのまま学校に転用したが、大正12年(1923)に校舎を新築するため現在も残る御書院を除いて解体された。この御書院は長崎県立諫早高等学校・附属中学校の構内にある。 【感想】 思っていた以上に案内板なども充溢しており、楽しく城めぐりが出来た。 しかし、案内板に書いてある文章をよく読んでいくと場所によって諫早氏の初代は家晴と書かれていたり、二代目から姓を諫早氏を名乗ったとか矛盾がある。 曲輪も東の丸と本丸の表記はあるが、本丸が非常に広く、公園にした際に改変されている可能性がある。忠魂の碑を境に段差がもっとあったような感じがある。 |
登城日 | 2015年9月24日(木) | ||
LINK | 諫早市HP〜まちあるきエリア〜 | |||
諫早陣屋-Wikipedia- | ||||
城主家紋 | 【十二日足】 (藤原姓高木氏流) 龍造寺氏(諫早氏)家紋 |
※案内図より(加筆あり) |
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【本明川と諫早城址】 | 【城下の水路】 | 【眼鏡橋】(重要文化財) 本明川に架かっていたが昭和32年の諫早大水害でも壊れなかったが、逆に水の流れを塞き止める堤防の形となってしまい大水害の原因となった。大水害の後、川幅を広げるため、壊す計画があったが、市民お願いによりこの地に移設された。 |
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【桜馬場(武者だまり)】(山城.1 案内ルート01) | 【大手門】(山城.2 案内ルート02) | 【折坂虎口】(山城.3 案内ルート03) 攻め登る敵の勢いをなくすために、地形を利用した狭く急な坂と曲がり角の両方の仕組みになっている。こうした構造を折坂虎口といった。 |
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【東の丸】(山城.4 案内ルート04) 本丸の防衛や物見などの目的で造られたと考えられる。 |
【武者走り(帯曲輪・腰曲輪)】(山城.5 案内ルート05) 案内板には腰曲輪との表現があるが山上を囲うように一周しているので実際は東の丸から続く帯曲輪。昔はもっと狭い小道であった。また山上の壁面は、石垣を一周巡らした総石垣であったと考えられる。 |
【虎口】(山城.6 案内ルート06) この虎口は、本丸へと進む最後の出入り口である。石段の側面はの上は、登ってくる敵を横から弓矢などで攻撃できる横矢掛りといわれる場所になっている。 |
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【虎口】 | 【大楠】 幹回りが約12m、樹高は約30mあり、樹齢は600年から800年と言われており、諫早のシンボルとして、市民から親しまれている。 |
【高矢倉】(山城.7 案内ルート07) この頂上には、高矢倉が四方にあったと考えられている。敵を弓矢で攻撃するため、また見張り台として用いられていた。 |
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【高矢倉跡からの眺望】 | 【忠魂の碑】 頂上全てが本丸なのかこの忠魂の碑を境に上下に分かれるのかがわからないが、雰囲気的にはこの先が本丸跡で手前が二ノ丸になるのかもしれない。 |
【本丸下段(二ノ丸か?)】 | |
【藤原明神、高城明神、亀の塔(がめんとさん)】 藤原明神:龍造寺家の遠祖である藤原鎌足を祀っている。 高城明神:諫早家初代の龍造寺家晴を祀っている。 亀の塔:「本明川の山下渕にいる大亀が城の下に潜り込み、敵が城を攻めると亀が手足を伸ばして山を押し上げるので、敵が攻めることが出来なかった。」という伝説があり、大亀の背中に石塔が作られたのでしょう。 |
【本丸(本曲輪)】(山城.8 案内ルート08) |
【本丸跡】 | |
【本丸跡】 石積み遺構が見られる。 |
【本丸土塁】 | 【本丸搦手虎口】 | |
【本丸搦手口】 | 【搦手】(山城.9 案内ルート09) この搦手を下りて天佑寺方面へ抜けられるようになっていた。現在は道が繋がっているが、昔は木橋が架かっていた。 |
【土橋】 昔はここに木橋があったのでしょう。 |
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【空堀】(山城.10 案内ルーよ10) この空堀の上が東の丸と繋がる武者走り(帯曲輪)になり、そこから弓矢や巨石を落す方法で城を守ったと考えられる。山の反対側には、本明川があり天然の堀となっていた。 |
【搦手口】 | 【土塁・石塁】(山城.11 案内ルート11) 土塁はあるのですが、藪がすごく石塁は確認が出来なかった。 |
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【高城神社】 明治15年(1882)創建、祭神は龍造寺家晴公。もともとは現在の諫早公園内にあったが昭和32年(1957)の諫早大水害により被害を受け、現在地に再建された。 |
【西郷井戸】(山城.12 案内ルート12) 城の飲み水として利用された。天正15年(1587)龍造寺軍が高城を奪った際、逃亡した西郷軍を追撃し、討ち取った首をこの井戸で洗って、龍造寺家晴に差し出した言い伝えから「西郷井戸」と呼ばれるようになった。 |
【西郷井戸】 | |
【高城回廊】 | 【御書院入場門】 ここから長崎県立諫早高等学校・附属中学校の構内にある御書院と庭園を見ることが出来る。 |
【御書院と庭園】 |