城名 原城(別名:日暮城、志自岐原の城、原(はる)の城、有馬城)
住所 〒859-2412
長崎県南島原市南有馬町乙
入場時間
入場料
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 なし
築城主 有馬貴純
築城年 明応5年(1496)
主な改修者 天草四郎時貞(籠城時に改修したと思われる)
主な城主 有馬氏、天草四郎時貞(一揆(籠城)軍)
位置 北緯32度37分59.9秒
東経130度15分23.3秒
地図 本丸
二ノ丸
三ノ丸
天草丸
大手手門跡
【歴史】
島原半島の南部に位置し、明応5年(1496)、日野江城の支城として有馬貴純(8代目)によって築かれ「日暮城」とも呼ばれている。城は、長崎県下最大の平山城で、周囲3km、41万uの規模をもち、東は有明海に面して、西と北は一部を除いて低湿地に囲まれ、南東に突出した岬を利用した天然の要害である。城構えは、本丸、二の丸、三の丸、天草丸、鳩山出丸などで構成されている。本丸は石垣で囲まれ出入口は枡形となり、近世城郭の特徴をもった。その特徴は、高い石垣、建物に瓦を使用、建物を礎石上に備えていた点である。一方、二ノ丸、三ノ丸は自然の地形を活かした土づくりであった。

原城の工事は慶長4年(1599)に始まり、慶長9年(1604)に完成したとされる。イエズス会宣教師の報告書は、文禄・慶長の役後に有馬晴信が居住している日野江城よりも一層適地にして、堅固で防御できるような新しい城を築城中であるとし、城内には晴信の屋敷のほか、家臣の屋敷、弾薬や食料を蓄えた三層の櫓があったと記した。

慶長19年(1614)、島原藩主有馬直純(14代目)氏は日向国県城(延岡城)に転封後、元和2年(1616)に松倉重政が大和五条(奈良県)から入部した。松倉氏は、一国一城令により原城を廃城とし、元和4年(1618)からの島原城(森岳城)の築城に当たり、構築の石材として、原城の石垣を運んだものと見られている。

松倉氏の藩政は、領民へ苛酷な賦役と重税を課し、キリシタン弾圧など、厳しく行ったため、寛永14年(1637)10月25日に天草四郎時貞を盟主として「島原の乱」が起こった。原城は、同年12月3日から寛永15年(1638)2月28日まで、領民(天草の領民も含む)約三万七千人(二万七千とも言われている)が88日間籠城した「島原の乱」終焉の地である。

乱の鎮圧後、幕府は原城跡に残存する石塁などの破却を行っているが、発掘調査では鉛の弾丸やクルスのほか、多数の人骨も出土している。
昭和13年(1938)に城跡は国の史跡に指定された。
(城内説明板及びコトバンクより編集)


【感想】
有馬氏の城というより島原の乱の終焉地としての印象が濃い城。バス停から本丸は直接向かったとしても10分位はかかるのではないでしょうか。それほどに広大な城域を持つ城です。説明板が整備されたのは相当前らしく、既に色あせて見れないものもあり、一度整備されていた説明板は既に朽ち果て撤去されたものも多くあるようです。そのため至る所に石碑などがあるのですが何の石碑なのか後々わかる次第でした。
本丸はだいぶ整備され、破却時の印象はやや薄くなっているかもしれませんが、正門からたどっていくと造りが良くわかります。


登城日 2015年9月25日(金)
LINK 南島原市HP〜南島原市から世界遺産を-原城跡〜
原城-Wikipedia-
城主家紋 【五瓜に唐花】
(藤原北家純友流)
有馬氏家紋
【九 曜】
(藤原姓/橘姓とも)
松倉氏家紋
【久留子】
天草四郎時貞が使用した紋

                      

探訪

※国指定史跡原城跡案内図より(抜粋・加筆あり)
【二ノ丸出丸跡】
原城前バス停で降りるとここが登城口となる。
【二ノ丸出丸跡】
原城の看板を右に入ると田畑になっているがその向こうに二ノ丸出丸跡が目に入る。
【二ノ丸出丸の石垣】
 
【本丸跡の案内指標】 【三ノ丸跡】 【三ノ丸跡】
石垣の箇所には坂内内膳正重昌の碑がある。
【坂内内膳正重昌の碑】
将軍家光の命により征討軍の統帥として寛永14年12月9日に着陣し、12月10日、20日と総攻撃をしたが農民・信者の勢いが予想以上に強く、久屯の計をとった。然るに江戸では、11月27日老中松平信綱を統帥に任じた事を12月29日兄重宗の書によって知った重昌寄手が退いたのを大いに怒り、槍をとって先頭に進み城に迫ったがついに胸部に銃弾を受け壮烈な戦死を遂げた。
【三ノ丸跡付近に立つ原城案内板】
立ててからだいぶ月日が経過したのであろう、ほとんど何が書いてあるのかわからない。
新しくしてもらいたいものですね。
【大手門跡】
ここは原城の表玄関であるが、島原の乱では一揆軍は、有馬監物、大江源右衛門等の指揮のもと、布津村、堂崎村、有家村、有馬村の三千五百余名が三ノ丸とともに守備した所である。
大手口】 【南三ノ丸跡】 【田尻門へと続く道】
【南三ノ丸跡】 南三ノ丸跡A】 南三ノ丸跡B】
【田尻門跡】
ここにその名を示す案内板は有りませんでした。
【田尻門付近から見た本丸方向】 【二ノ丸出丸跡】
【二ノ丸跡から見た本丸方向】 【二ノ丸跡】 【蓮池跡】
【二ノ丸付近より見た本丸方向】
右手が西二ノ丸、左手前方が蓮池跡になる。
【西二ノ丸跡の石垣】 【西二ノ丸跡の石垣】
【空堀】
乱当時、一揆軍によって設けられた堀である。2月21日の夜襲軍4,000人はここから出撃したといわれる。籠城の間は竹や木で柱を立て、その上を萱で覆い、老人や女子供らを収容していた。
【空堀の石垣】 【城壁跡】
島原藩主松倉重政は、一国一城令により原城・日野江城を廃城とし、島原に本拠を構え、島原城(森岳城)を築城するため、殆どの石を運んだ。この石垣は、取り残された築城当時の遺構である。
【内馬場跡】
本丸と鳩山出丸の間の平地は、有馬時代の乗馬練習場である。
【鳩山出丸跡】 【鳩山出丸跡】
現在は畑になっている。
【田町門跡付近より見た本丸方向】 【田町門跡と天草丸跡】 【天草丸跡】
一揆軍が本戸但馬、柴田六兵衛などの指揮のもと、天草郡の二千余名で守備した所。一揆軍は、幕府軍の再三の攻撃を排除したが2月28日の総攻撃では、黒田軍などの大軍の攻撃を受け後退した。
【天草丸跡】
現在は畑になっている。
【田町門跡】
一揆軍の口ノ津次郎兵衛、千々石ノ作左衛門などを中心に、小浜、千々石、天草上津浦の千四百余名で守備した所である。
【城址碑と田町門説明板】
【ほねかみ地蔵】
明和三年(1766)、有馬村願心寺注誉上人が戦乱で斃れた人々の骨を拾い、その霊を慰めたものである。
【本丸正門跡】 【本丸正門枡形】
大きなコの字型の枡形になっている。島原の乱後この場所は埋められていた。発掘状況からわかったことは一揆軍の遺体を投げ込み、その上に石垣を崩し、土で埋めていたようです。
【本丸正門枡形】
下に転がる石は破却時に埋めたものであろう。
【本丸正門枡形】
ここには細かい石が敷かれている。
【本丸正門枡形】
【本丸正門枡形】 【破却された石垣の石】
破却された石垣の石が置かれている。
【本丸櫓台】
下部は石垣が残っているが上部は破却され積まれていない。
【本丸櫓台】 【本丸枡形虎口】 【本丸枡形虎口】
【本丸跡】 【本丸跡に立つ説明板】 【城址碑】
【三体の石像】
本丸の囲いの外側に、有明海を望む三体の吉利支丹の像が、ひっそりと佇んでいる。いつ誰が置いたものかは分からないという。見つめている先には「湯島」別名、談合島がある。島原の乱勃発前、首謀者たちはこの島で会談し、一揆を決めたと伝わる。
【本丸海側】 【本丸跡に建つ十字架】
島原終焉の地に建つ十字架はここに籠城したキリシタンを供養しているのでしょう。
【天草四郎時貞の像】
小西行長の家臣、益田甚兵衛好次の子で本名益田四郎時貞といい洗礼名はジェロニモとかフランシスコなどと言われています。
【天草四郎時貞の墓碑】
島原の乱に際し、若干15歳という若さで一揆軍の総大将として幕府軍と対立しました。一揆軍は88日間この原城に籠城したが、圧倒的な幕府軍の総攻撃により終結しました。四郎はこの本丸で首を切られ、長崎の出島でもさらし首にされました。
この墓碑は、西有家町にある民家のの石垣の中にあったものをこの場所に移したものです。
【佐分利九之丞の墓】
佐分利九之丞は、因幡藩(鳥取県)池田家家臣で島原の乱の時慰問使として差遣された人物。寛永15年(1638)2月27日、幕府軍の総攻撃にあたり、九之丞は細川軍の先鋒を承って進撃したが、本丸において遂に斃れました。彼は刀を採り、傍らにあった自然石に己の姓名と年月を彫り込んだものと伝えられ、その自然石がそのまま彼の墓碑となっています。
【池尻口門跡】
本丸の搦手側の門にあたる。
【池尻口門跡】 【本丸石垣】
上部が破却されていることが良くわかる。
【石垣内隅部】
石垣の上部分を取り壊し、その石や裏込め石を投げ込み埋められました。埋められた石の他に大量の瓦も出土した。
【破却された石垣の石】 【池尻口門へと続く道と本丸石垣】




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