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城名 | 日野江城(別名:日之江城、日ノ江城、火ノ江城、日ノ枝城) | ||
住所 | 〒859-2305 長崎県南島原市北有馬町戊谷川名 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | 国指定史跡 | |||
城郭構造 | 連郭式平山城 | |||
天守構造 | 不明 | |||
築城主 | 藤原(有馬)経澄 | |||
築城年 | 建保年間(1213〜1219年) | |||
主な改修者 | 有馬晴信 | |||
主な城主 | 有馬氏 | |||
位置 | 北緯32度39分36.04秒 東経130度15分9.97秒 |
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地図 | 1 | 本丸 | ||
2 | 二ノ丸 | |||
3 | 三ノ丸 | |||
4 | 天草丸 | |||
5 | 大手手門跡 | |||
【歴史】 日野江城は有馬氏の居城で、築城時期は鎌倉・建保年間(1213〜1219)との説もあるが、南北朝時代には形成されていたとされる。 晴信の時代には、龍造寺氏との戦いの中で、天正5年(1577)〜天正11年(1583)にかけて3度焼失し、造り直したとみられる。イエズス会の天正18年(1590)年報では「大小の部屋はすべて黄金の品や典雅で華麗な絵画で飾られていた。(中略)みごとな出来ばえとなった城郭をみたポルトガル人たちは、日本にこれほど壮麗な建築物があるなどとは考えてみなかった」と当時の日野江城と晴信の館について述べている。また、文禄4年(1595)に日野江城に招かれたスペイン商人は、「金色や薄い青色を使って何千という薔薇や自然の木々、雪をかぶった山脈、鷹や鹿が緻密に描かれ、すばらしい魅力とよろこびを与える」(要約)と賞賛、茶室や手入れの行き届いた庭園もあったという。 往時の日野江城は、江戸時代の絵図や近年の発掘などにより、標高78mの城山山頂の本丸を中心に、自然の地形を利用して二の丸、三の丸が築かれていたとみられる。その後の干拓で現在は海から離れてしまったが、当時は海のそばにあり、海に反射する日差しが輝く「日の入江」の名にふさわしい名城だったという。 江戸時代に入り、慶長17年(1612)の岡本大八事件で晴信は失脚し、その子・直純(なおずみ)も2年後に日向延岡藩に移る。その後は幕府領であったが、元和2年(1616)に藩主となった松倉氏は島原城(森岳城)を造り、一国一城令によって日野江城と原城を廃城にした。 日野江城跡は、日本キリスト教史における初期の中心地として、昭和57年(1982)に国の史跡に指定されている。 【感想】 日野江城前バス停が日野江城からかなり離れているため、スマホのナビを使用したが、車で登る登城道を示すので、目に見える城址に向かって歩を進めると住宅街に地図が出てきて登り口を示していたので上ってみると日野江城址の間道のようであった。ここが搦手かと思いましたが車で登場する口側が搦手だと後でわかりました。 大手門側は二ノ丸へ続くようだが、訪れたときは運が悪く大手側が発掘調査や修復作業中で足を踏み入れることが出来なかった。そのため一番の見どころが見れていない。 また、城址は説明が少なく現地ではどの場所なのかが良くわからなかった。 |
登城日 | 2015年9月25日(金) | ||
LINK | 南島原市HP〜南島原市から世界遺産を-日野江城跡〜 | |||
日野江城-Wikipedia- | ||||
城主家紋 | 【五瓜に唐花】 (藤原北家純友流) 有馬氏家紋 |
【日野江城前バス停付近の案内表示】 | 【日野江城遠景】 | 【間道】 城址東側の大手口、西側の浦門口(搦手口)に対し、南側に位置する登城口になる。 |
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【間道の登城口にある日野江公民館】 | 【石垣遺構も見て取れる枡形状の虎口】 | 【間道】 道は狭く上から水が流れており滑りやすい。ひょっとしてこの辺は水ノ手なのか? |
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【間道】 | 【間道(切通し)】 | 【間道】 ところどころに平場がある。番所みたいなものがあったのかもしれない。 |
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【空堀と土橋】 土橋の下は石垣が見られる。 |
【間道の虎口】 ここを過ぎると本丸下に出る。 |
【本丸へと続く登城路】 右手は風雨により土砂が流れ出してしまったのだろう。 かなり遺構が破壊されている。 |
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【本丸東側下の曲輪の城塁】 当時はこの場所は石垣が組まれていたと思われる。 |
【本丸東側下の曲輪の城塁(石垣)】 この場所には石垣が残っている。道は帯曲輪か? |
【本丸下の曲輪下の帯曲輪より見た二ノ丸跡】 | |
【二ノ丸跡】 | 【二ノ丸跡から見た本丸方向】 | 【二ノ丸跡の発掘現場】 二ノ丸には至る所に石垣が残っている。ただ高く積まれたものはない。 |
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【二ノ丸跡の排水遺構か?】 | 【二ノ丸跡下段の発掘現場】 | 【二ノ丸跡下段】 | |
【二ノ丸の大手道の階段遺構を修築している現場】 作業中の為、中も見れず、二ノ丸下段にも降りれず、この城での一番の見どころである石垣遺構が見ることができなかった。 |
【本丸東側下の曲輪の城塁(石垣)】 | 【本丸東側下の曲輪】 | |
【本丸東側下の曲輪より見た本丸跡】 | 【本丸東側下の曲輪からの眺望】 | 【本丸の石垣】 高く積む技術がないのか低い石垣が段上に積まれている。 |
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【本丸の石垣】 | 【本丸へ続く登城道脇の石垣遺構】 | 【本丸へ入るための虎口か?】 この場所で左に曲がっている。 |
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【日野江神社鳥居】 この鳥居の位置が本丸の高さになり、これより上は本丸より高い曲輪となる。 |
【役小角祠】 本祠は温泉山満明密寺傘下の修験信仰を表現するものとして貴重な石祠である。この通称八天様と称する役小角祠は寛文7年12月柘植嘉門他三氏により建立されたもので、遺構は両部袖道に因る。 |
【日野江城跡碑】 | |
【史跡日野江城址碑】 | 【本丸上の曲輪跡】 本丸の上にある曲輪なのでここに物見的な櫓でも建っていたのだろうか? |
【本丸へ続く坂虎口?】 | |
【本丸跡】 | 【本丸跡】 | 【本丸跡から見た原城】 | |
【原城址】 | 【本丸上の曲輪西側入口】 大手側方向に続いている。 |
【本丸西側下】 | |
【本丸西側下より見た北ノ丸方向】 | 【大手側の駐車場】 本丸西側下部分。 |
【本丸西側下の帯曲輪】 | |
【本丸下の帯曲輪】 | 【本丸下の帯曲輪】 | 【本丸東側下曲輪】 帯曲輪はここに繋がっていた。 |