城名 勝瑞城・勝瑞城館
(別名:阿波屋形、下屋形、勝瑞屋形)
住所 〒771-1270
徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地176 見性寺
入場時間
入場料
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 小笠原長清
築城年 鎌倉時代初期(諸説あり)
主な改修者 三好実休
主な城主 細川氏、三好氏
位置 北緯34度7分57.37秒
東経134度31分22.56秒
地図 本丸跡
堀跡
土塁
会所跡(館跡)
復元堀跡(館跡)
【歴史】
勝瑞城は、室町時代の阿波国守護細川氏及び、その後三好氏が本拠とした城で、県内に残る忠誠城郭の中では珍しい平城である。15世紀中頃に細川氏が守護所を土成町の秋月から勝瑞に移したとされ、その後勝瑞城を中心として形成された守護町勝瑞は、阿波の政治・文化の中心として栄えた。勝瑞城は、京都の管領屋形に対して阿波屋形または下屋形とも呼ばれた。応仁の乱では東軍の後方拠点となり、また両細川の乱では細川澄元党、次いでその子晴元党の拠点となった。

天文22年(1553)、家臣の三好義賢(後に実休と号する)が守護細川持隆を殺害し、その実験を奪った。このころ三好長慶らは度々畿内に出兵し、三好の名を天下に轟かせた。

勝瑞は、吉野川の本支流に囲まれ、水運の便に恵まれた土地で、機内で活躍した細川・三好両氏は、機内から多くの物資や文化をもたらせ、機内と直結した文化都市としても全盛を誇った。そのことは発掘調査で出土した遺物からもうかがえる。また、城下には多くの寺院が建ち並び、市が賑わい、かなりの城下町が形成されていた。本丸跡の周辺には寺院跡をはじめ各種の遺跡や伝承が残されている。

天正10年(1582)土佐の長曾我部元親は十河存保の守る勝瑞城に大挙して押し寄せた。8月26日、存保は中富川の合戦で大敗を喫し、勝瑞城に籠城したが9月21日、讃岐へ退き、ここに勝瑞城は歴史の幕を下ろすこととなった。

その後、天正13年(1585)の蜂須賀氏の阿波国入部により、城下の寺院の多くは徳島城下に移転され、町は衰退した。

周地(勝瑞城跡)は16世紀末に築かれた詰めの城で、館跡ともに平成13年に国史跡に指定された。城内にある見性寺は、三好氏の菩提寺であり、当時は城の西方にあったが、江戸時代の中期にこの地へ移転してきた。境内には、三好之長、元長、義賢(実休)、長治らの墓が並んでいる。また、見性寺が所蔵する絹本着色の三好長輝(之長)・長基(元長)の肖像画は徳島県の有形文化財に指定されている。
(城跡内説明による)


【感想】
続100名城に選出された城跡。
細川、三好の本拠地として栄えた場所とは思えないくらい何もない。
勝瑞城跡の方は小ぶりで堀に囲まれた中世城館のような場所であり、戦時の詰ノ城として使用されていたのであろう。勝瑞城館館跡の方は、城跡とは比較に出来ないほど広大で現在も発掘が進められている。この発掘作業が済むと多分館などの復元もされるかもしれない。
今後の整備に期待したい。


登城日 2017年7月15日(土)
LINK 守護町勝瑞遺跡オフィシャルWEBサイト
勝瑞城-Wikipedia-
城主家紋 【二つ引両】
(清和源氏足利氏流)
細川氏家紋
【三階菱に釘抜】
(清和源氏小笠原氏流)
三好氏家紋

                      

【勝瑞城】 【勝瑞城入口】 【城址碑】
【南西側堀】 【土橋】 【南東側堀】
【本丸跡】 【勝瑞義冢碑】
四国正学といわれた徳島藩儒官那波魯堂(1727〜89)の撰、仙石大名三好の盛衰と戦没者の慰霊文を記した歴史的な記録で、優れた筆跡は注目されている。
【本丸跡に建つ見性寺】
三好四代の墓】
三好之長、元長、義賢、長治のものといわれている。
【矢竹と土塁】 【土塁】
北西側堀】 【木橋】 【北東側堀】
【休憩所 【北東側堀】 【城跡北東からみた木橋付近】
城址碑】 【説明板】 【発掘現場-】
濠跡と木橋】 【濠跡と木橋】 【濠跡】
館内の区画溝跡】 【会所跡】 【会所跡】
枯山水庭園跡】 【濠跡】 【礎石建物跡(2棟)と土抗墓】




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