城名 角牟礼城(別名:角埋城)
住所 〒879-4404
大分県玖珠郡玖珠町森
入場時間
入場料
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 山城
天守構造
築城主 森朝通(玖珠群衆)
築城年 弘安年間(1278〜1288)
主な改修者 毛利氏
主な城主 森氏、毛利氏
位置 北緯33度18分33.7秒
東経131度9分16.2秒
【沿革】
角牟礼城跡は標高577mの角埋山に築かれた石垣のある山城として古くから知られている。天然の要害と呼ぶにふさわしく、三方を切立った険しい岩盤で囲まれている。

角牟礼城跡の名が史料に初めて登場するのは、文明7年(1475)の志賀親家文書である。その後、天文2年(1532)や翌3年には「角牟礼新堀之事」や「角牟礼勤番在城」と出てくるように、角牟礼城跡は古くから、豊前側からの侵入を防ぐ豊後の境目の城として、玖珠群衆により守られていた城である。

天正14,15年(1585,86)の島津氏と大友氏の豊薩戦では、唯一落城しなかった要害堅固の城として有名でもある。

文禄2年(1593)には豊臣秀吉が、文禄の役で失態をおかした大友義統を除国し、翌年に日田郡に宮木長次、玖珠郡に毛利高政を入部させた。慶長元年(1596)からは毛利高政が日田・玖珠郡二万石を支配したことが、秀吉の「朱印状」や「黒田家譜」からも知られる。今回発掘調査で発見された門跡や現存する石垣は、この時期に築かれたものと考えられている。従って、この城跡は文禄3年頃、豊後の要の城から、領国支配のための近世城郭へと生まれ変わる時期のものだとみられる。

そして慶長5年(1600)の関ケ原の戦い後、毛利高政は佐伯城主に転封され、一時黒田孝高の預かり地となるが、代わって伊予より来島康親が入部する。しかし、来島は1万4千石の小大名であり、城を持つことは許されず、現在の三島公園に陣屋を築き、山城は「正保の絵図」(1644)に古城と書かれているように、そのまま放置され、長い歴史の幕を閉じることになる。

平成5年から町教委により発掘調査が行われ、本丸に階段状の虎口(出入口)、大手門と西門に同じ規模の門跡、また二ノ丸西曲輪には礎石建物が発見されている。二つの門には瓦が葺かれていたと考えられる。
(「説明板」の内容を編集)


【感想】
最寄り駅の豊後森駅からタクシーで三ノ丸跡までだと約1,500円かかります。
三ノ丸の駐車場で降りると目に入るのは周囲を囲むようにある石垣とゴロゴロと転がった石です。整備された石垣もよりですが石が多く転がる奥には石垣が確認できます。
三ノ丸から二ノ丸、本丸へと続く道は、二ノ丸下の水ノ手曲輪に(伝)搦手門があったとなっていますが現在ではこれが大手門となっています。このように登城した日には新旧の表示板があり頭が混乱しました。
帰りに豊後森藩資料館で話を聞かなければ古い方を信じていたでしょう。
早めに古い表示のものは撤去してもらいたいですね。

100名城
スタンプ
スタンプ
設置場所
豊後森藩資料館(わらべの館2階視聴覚室内)
登城日 2018年10月25日(木)
LINK 玖珠町公式HP-角牟礼城
角牟礼城-Wikipedia
城主家紋 【丸に矢筈】
(佐々木氏流/藤原氏)
毛利(森)氏家紋

                      

探訪

※案内板より(加筆あり)
※昔と現在では表記が変わってきており、(伝)がなくなり名称も変更されています。
三ノ丸から二ノ丸へと続く場所が搦手というのは間違いで、大手門とされていた場所に登城道跡が見つからないため西門とされました。
(伝)本丸→本丸
(伝)二ノ丸→二ノ丸西曲輪
(伝)大手門→西門
(伝)搦手門→大手門
【登城口】 【楯石】
中平古戦場跡、天正15年(1587)1月23日、角牟礼城を攻める島津軍に対して、城方が防戦して、これを退いたところで、この石を楯として使用したそうです。
【三ノ丸跡】
ここまで車で上がることが出来ます。
【三ノ丸石垣】 【三ノ丸跡】 【三ノ丸隅櫓跡】
【三ノ丸を囲う石垣】 【三ノ丸を囲う石垣】 【三ノ丸跡】
三ノ丸跡の西側は石がゴロゴロとしています。
【大手道
ここから二ノ丸、水の手曲輪、本丸へと続きます。
【三ノ丸石垣】 【竪堀群】
三ノ丸から二ノ丸へ向かう城道の下に竪堀が幾重にもありますが、正直分かり辛いです。
【三ノ丸からの城道】 【城道から見た水ノ手曲輪下】 【二の丸南曲輪跡(仮称)】
この地点に二ノ丸の説明板があるが、これより上に二ノ丸西曲輪跡があるので便宜上二ノ丸南曲輪とします。
【二ノ丸南虎口石垣】 【二ノ丸南曲輪跡(仮称)】 【二ノ丸南虎口石垣】
【二ノ丸西曲輪へ続く城道】
かなりの勾配があります。
【水ノ手曲輪石垣】 【水ノ手曲輪石垣】
【水ノ手曲輪石垣】 【水ノ手曲輪石垣】 【大手道】
【大手道】 【大手道】
左側の石垣は櫓跡となっています。多分大手門が櫓門だったのでしょう。
【水ノ手曲輪跡と大手門跡】
【大手門跡】 【水ノ手曲輪】 【水ノ手曲輪石垣】
【二ノ丸西曲輪へと続く城道】 【二ノ丸西曲輪へと続く城道】 【二ノ丸西曲輪石垣】
【二ノ丸西曲輪石垣】 【二ノ丸西曲輪跡】 【二ノ丸西曲輪内の礎石建物跡】
【二ノ丸西曲輪土塁】 【西門跡】 【西門石垣】
【西門跡】 【西門枡形】 【西門石垣】
【西門跡からの眺望】 【西門跡】 【西門跡】
【二ノ丸西曲輪から展望所へ向かう城道】 【角埋神社】 【角埋神社】
【角埋神社の平場】 【展望所からの眺望】 【展望所から本丸跡へと続く城道】
【展望所から本丸跡へと続く城道】 【現在の本丸入口】 【本丸跡】
【本丸跡の指標など】 【本丸の隅櫓跡】 【本丸隅櫓石垣】
【本丸土塁】 【本丸南側虎口跡】 【本丸南側虎口跡】




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