城名 安芸城(別名:安芸土居)
住所 〒784-0042
高知県安芸市土居953
入場時間
入場料
指定文化財 安芸市指定史跡
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 不明
築城主 安芸親氏
築城年 延慶元年(1308)
主な改修者 五藤為重
主な城主 安芸氏、香宗我部親泰(長宗我部氏)、五藤氏(山内氏)
位置 北緯33度31分10.1秒
東経133度54分45秒
【沿革】
安芸城は、鎌倉時代の延慶元年(1308)、安芸親氏によって築かれたといわれる。安芸氏は、土佐国東部の有力な豪族で、戦国時代には、土佐七雄の一人と称されたが、永禄12年(1569)7月、長宗我部元親に攻められ包囲された。敵に背後をつかれ、不覚をとりながらも安芸勢は城を打って出ては奮戦、籠城24日に及んだが、ついに城の東安芸川の対岸より火矢を放たれ、城は炎上した。この間、敵に内通するものがあり。機を見て城の井戸に毒を投じ、長宗我部軍の陣に走った。また、城内の兵ら倒れる者多数。士気は著しく衰え、覚悟を決めた城主安芸国虎は、残された全兵士と領民の助命を条件に、自らは菩提寺である浄貞寺に入り自決し、安芸氏は滅びた。

城は、安芸平野のほぼ中央にあり、詰からは平野が一望できる。標高約41m、東西100m、南北190mの楕円形をした平山城で、城跡は中世の安芸氏が築いた城山部分と、江戸時代に土佐藩家老であった五藤氏により整備された部分よりなる。五藤氏は、慶長6年(1601)山内一豊に従い土佐へ入国し、千百石の地行をうけて安芸土居に入り、幕末まで居館を構えた。

安芸城跡は詰、曲輪、虎口、土塁等の遺構が良好に残り、昭和44年安芸市の保護有形文化財(史跡)に指定された。

【感想】
土居部分は入口に枡形虎口を設け居館であるが城構えをしている。
山上は中世安芸氏の城、曲輪も良好に残りこじんまりとしてはいるがよく整備された城跡です。


登城日 2019年2月9日(土)
LINK 安芸市HP-安芸城跡
安芸城-Wikipedia
城主家紋 【三つ割剣花菱】
(蘇我赤兄の裔か)
安芸氏家紋
【割菱】
(清和源氏武田氏流一条氏後裔)
香宗我部氏家紋

                      

探訪

※案内板より
【南西隅土塁と水堀】 【水堀】 【土居入口】
【水堀】 【南東隅土塁と水堀】 【土居の枡形虎口】
【安芸城と土居廓中の説明板】 【土居の枡形虎口】 【土居の石垣】
【五藤家安芸屋敷入口】 【五藤家安芸屋敷】
安芸城の麓一帯には屋敷や蔵、馬小屋などが幾棟も並び、広い土居屋敷を構えていたが、明治になってすべて取り壊された。現在建っている屋敷は明治20〜30年代にかけて、寄棟造りの主屋や離れなどが建てられたものです。
【土居の石垣】
【土居枡形虎口(門跡)】 【安芸城麓の石垣】 【安芸城麓の石垣】
【石垣付近から見た歴史民俗博物館】 【歴史民俗博物館】 【毒井戸跡】
長宗我部軍に包囲された際に内通者により毒が入れられた井戸跡。
【毒井戸跡】 【藤崎神社】
土佐藩家老五藤家の先祖を祀る神社。
【藤崎神社】
【城山部分の登城口】 【登城道】 【堀切と三ノ段跡】
一段高い部分が三ノ段で、その手前の窪みが堀切になっている。
【三ノ段跡から見た堀切】 【三ノ段跡より見た安芸の町並み】 【二ノ段付近の城道】
【二ノ段跡】 【二ノ段跡】 【二ノ段跡】
【詰の切岸】 【詰の虎口】 【詰跡】
【詰の土塁】 【詰跡】 【北ノ段跡】
【北ノ段跡】 【石積み】
詰と北ノ段の境部分にある。
【北ノ段跡からの景色】
【土居東側虎口】 【土居東側虎口】
観光〜野良時計〜
【野良時計】
野良仕事をする人たちのために個人で作った時計。
【野良時計】 【野良時計】




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