城名 引田城
住所 〒769-2901
香川県東かがわ市引田
入場時間
入場料
指定文化財 東かがわ市指定史跡
城郭構造 平山城
天守構造 不明
築城主 不明
築城年 室町時代
主な改修者 四宮右近(寒川氏)、仙石久秀、生駒親正
主な城主 四宮氏(寒川氏)、仙石氏、生駒氏
位置 北緯34度13分59.74秒
東経134度24分33.07秒
【沿革】
文献史料上、引田城に関わる記述が見えるのは、江戸時代編纂の軍記物語「南海通記」に応仁年間(1467〜69)に国人・寒川氏が領したとあるのが初見です。

永正年間(1504〜21)信濃国から入った四宮右近が寒川氏に属して引田城を居城としました。
引田は讃岐国(香川県)の東端にあることから、戦国時代には阿波三好氏との攻防があり、引田城の城主は何度か替わりました。

元亀元年(1570)には、阿波三好氏家臣矢野駿河守が城主にとなりますが、天正5年(1577)矢野駿河守が阿波に引き上げ、以後引田城主がいなくなります。

天正10年(1582)土佐の長宗我部勢の阿波・讃岐侵攻が本格化になり、天正11年(1583)長宗我部元親による讃岐侵攻の際、長宗我部軍と秀吉方の仙石久秀が、この地で戦い(引田合戦)、仙石勢が敗戦します。

天正13年(1583)には仙石久秀が豊臣秀吉から讃岐国を与えられます。その後、天正15年(1587)に秀吉の家臣である生駒親正が播磨国赤穂から讃岐国に入部した折、引田城に入ったが、程なく引田城を離れ、宇多津、高松移り高松城を築城したとあります。

平成22年度からの発掘調査などにより、生駒氏は土づくりの引田城を、総石垣、瓦で葺かれた礎石建物で築かれ石垣づくりの城に改築し、高松城を讃岐国支配の拠点とした後も、引田城を東讃地方の支城として元和元年(1615)の一国一城令まで使っていたことがわかりました。


【感想】
現在の登城口からの遊歩道は大正時代末期に整備されたものの為、本来の登城道とは異なっています。そのため山上の遊歩道も本来とは異なるかもしれません。
山上には指標がある場所もありますが、指標自体がその場所を示すものになっているため迷ってしまうかもしれません。
その指標には本来大きな文字でその場所を示したようですが、現在は地図が括り付けられており、良く見ないとわかりません。
指標の天守台など探していると次に出てくる場所はパンフレットにもない南郭と表示がり、非常に混乱してしまいます。
大手門は遊歩道上にないため少々探すことになります。
この城で一番の見所は北二の丸の石垣で上段は崩落の危険性があるのでブルーシートがかぶせてありますが、その下の段に見事な高石垣があります。


100名城
スタンプ
スタンプ
設置場所
・讃州井筒屋敷(10時〜16時、休館日:水曜日)
・引田公民館(9時〜17時、休館日:火曜日)
登城日 2019年2月10日(日)
 LINK 東かがわ市HP-引田城
引田城-Wikipedia
城主家紋 【七本松に三の字】
(讃岐公凡直後裔)
寒川氏家紋
【永楽銭】
(清和源氏頼光流土岐支流)
仙石氏家紋
【波切り車】
(藤原氏北家流後裔)
生駒氏家紋

                      

探訪

※パンフレットより(加筆有り)
【引田港より見た引田城跡】 【引田港側登城口】 【引田港側登城口の説明板】
説明板のボックスにはパンフレットがありますので是非これを持ちながらの散策をおススメします。
【登城途中から見た引田港と引田の町並み】 【本丸石垣】 【本丸石垣】
【本丸跡】 【南郭(本丸)跡】 【本丸跡の祠】
【天守台跡 【展望台跡と引田の町並み】 【化粧池に向かう遊歩道】
【遊歩道途中から見た引田港】 【化粧池】
引田城のお姫様や女中たちがこの池の水を使って化粧していたと伝えられています。
【化粧池を囲む石垣】
【化粧池】 【引田鼻灯台】 【引田鼻灯台からの景色】
見える島は通年島と松島
【東の丸下段】 【東の丸中段】 【東の丸上段】
【東の丸石垣】
東の丸は、上中下3段の曲輪から構成され、塁線の石垣がひとつづきとなるように連結されています。火薬を保管した煙硝蔵など軍事施設があったと推定されています。
【東の丸石垣】 【南二の丸】
【南二の丸】 【大手門付近の石垣】 【大手門付近の石垣】
【大手門跡】 【北二の丸跡】 【北二の丸跡】
【北二の丸跡】 【北二の丸石垣上段】 【北二の丸石垣下段】
【北二の丸石垣下段】 【北二の丸石垣下段】 【北二の丸石垣下段】
【北二の丸石垣】 【北曲輪跡】 【田の浦キャンプ場側登城口】
探訪〜引田飾り〜




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