城名 | 知覧城(別名:知覧院、上木場城) | |||
住所 | 〒897-0303 鹿児島県南九州市知覧町永里 |
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入場時間 | − | |||
入場料 |
−
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指定文化財 | 国指定史跡 | |||
城郭構造 | 山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 知覧忠信 | |||
築城年 | 12世紀末 | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 佐多氏 | |||
位置 | 北緯31度22分2.8秒 東経130度26分37.4秒 |
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【沿革】 鎌倉時代初め、源頼朝の命によってできた建久八年(1197)薩摩国図田帳(土地台帳)によると、当地は知覧院とよばれ、薩摩平氏の一族である平忠益が郡司として治めており、地頭には島津氏初代忠久が臨んでいました。 その後、郡司・地頭の職務はそれぞれの子孫に継承され、南北朝時代になると、郡司平忠世は南朝方に、地頭島津久直は北朝に属して各地域を転戦しましたが、ともに没落してしまい、文和二年(1353)に足利尊氏が島津氏五代島津貞久の弟佐多氏の初代の忠光の軍功を賞して郡司知覧忠世の遺領を与えたことにより、これ以後、知覧は佐多氏の領地となりました。 室町時代初め、知覧は、その頃南薩摩に勢力を張っていた伊集院氏の一族今給黎久俊が押領して、島津氏八代目久豊に反抗していましたが、応永二十七年(1420)ついに降伏しました。山田聖栄自記によると、島津久豊は知覧城(当時は上木場城とよばれました)に入ると、あらためて知覧は「佐多殿の由緒の地」であるといって、佐多氏四代佐多親久に与えました。これが知覧城に関する最も古い記録となっています。 高低差がありすぎる空堀 その後、天正十九年(1591)佐多氏は家臣が豊臣秀吉の命令に背いたことから、知覧を没収され、隣村川辺宮村に領地を移されました。10年後にはまた知覧に復帰しましたが、その間に知覧城は火災にあって全て焼失してしまいました。 元和元年(1615)には徳川家康は一国一城の制をしきましたが、それをまつまでもなく知覧城は廃城となったものと思われます。 知覧城はシラス台地のへりにできた浸食谷を利用して空堀とし、10余りの郭(平坦なところ)を築いて、これらを本丸の周辺に配置した山城で、築城当初の原形がよく保存されている貴重な遺跡であると評価されています。 【感想】 シラス台地の浸食谷を利用した空堀の深く斜面は垂直で各曲輪ごとを分断している。堀底はすべて堀底道になっており敵兵が侵入すれば上部から攻撃を受けることになる。 主要部はこじんまりした感はあるが、枡形虎口なども見られ技巧的な部分もあります。 |
100名城 スタンプ |
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スタンプ 設置場所 |
ミュージアム知覧 | |||
登城日 | 2019年4月29日(月) | |||
LINK | 城びと-知覧城 | |||
知覧城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | − | − |
※パンフレットより |
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【堀跡】 左側は西ノ栫になる。 |
【駐車場にある案内板】 | 【堀跡】 左側は東ノ栫、右側は本丸跡になる。 |
【東ノ栫と今城との間の堀跡】 | 【今城と本丸との間の堀(堀底道)】 | 【第二次世界大戦時の防空壕】 |
【今城と本丸との間の堀(堀底道)】 | 【今城跡への城道】 | 【今城の虎口】 |
【今城の虎口と土塁】 | 【今城跡】 | 【今城跡土塁】 |
【弓場城への城道】 | 【弓場城への城道】 | 【弓場城跡】 |
【弓場城跡の土塁】 | 【弓場城と本丸との間の堀(堀底道)】 | 【本丸と蔵之城へと続く枡形虎口】 |
【本丸と蔵之城へと続く枡形虎口】 | 【枡形虎口から続く城道】 | 【城道】 |
【虎口】 | 【蔵之城】 | 【蔵之城虎口】 |
【蔵之城虎口】 | 【蔵之城虎口】 | 【蔵之城跡】 |
【蔵之城のの土塁】 | 【蔵之城の掘立柱建物跡】 | 【本丸と蔵之城下の平場】 |
【本丸へ続く城道】 | 【本丸】 | 【本丸虎口】 |
【本丸虎口】 | 【城址碑】 | 【本丸の土塁】 |
【土塁と溝】 | 【土塁】 | 【井戸跡】 |
【土塁】 | 【本丸跡】 | 【本丸と蔵之城との間の堀切】 |
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【本丸と蔵之城下の平場】 | 【本丸と蔵之城との間の堀切】 | − |