城名 佐敷城(別名:佐敷花岡城、近世佐敷城)
住所 〒869-5441
熊本県葦北郡芦北町大字佐敷字中丁49番1
入場時間
入場料
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 加藤清正
築城年 天正16年(1588)
主な改修者 加藤清正
主な城主 加藤重次
位置 北緯32度18分11秒
東経130度30分10秒
【沿革】
佐敷城は、古代から近代にかけて葦北郡の政治、経済、文化の中心であった佐敷地区を見下ろす城山に築かれました。築城年代と築城者については、文献が残っていないのため正確にはわかりませんが、当時の政治状況から加藤清正の領地となった天正16〜20年(1588〜1592)にかけて、薩摩国境を守る「境目の城」として築城されたと考えられます。

城代は、加藤家重臣の加藤与左衛門重次でしたが、手勢を率いて朝鮮半島に渡っていた天正20年6月、肥前国名護屋への船待ちと称して城下に駐留していた薩摩島津家臣の梅北国兼が城を乗っ取る事件が発生しました(梅北の乱)。事件は偽って投降した加藤家留守居家臣衆の手で梅北が討ち取られ、3日間ほどで終結したと、従来伝えられてきました。しかし、近年見つかった資料では、一軍を率いて八代を攻撃し、鎮圧までに15日間を要するなど、約2千人の軍勢による大規模な反乱であったことが記されています。

関ケ原の戦いの際にも島津軍の攻撃を受けており、これら実戦を経て最前線の城郭として整備されていますが元和元年の一国一城令により破却され、廃城となりました。

加藤氏改易後、新しく肥後藩主となった細川氏は、天草・島原の乱後に江戸幕府に対し「佐敷、みな俣」の両城は、加藤家による破城が不十分であり石垣が残っているため、再度、石垣を取り除いた、と報告しています。

発掘調査では崩された石垣ともに寛永通宝が出土し、細川氏の「寛永の破城」が裏付けられました。また、鷹ノ原城(南関町)でも寛永通宝が同様に出土し、寛永年間がに肥後藩領内で破城が行われたことが分かってきました。
(※パンフレットより)


【感想】
最寄り駅は佐敷駅ですが改札を出てすぐの陸橋を渡りしろやまスカイドームの方へ登って行くと登城口があります。こちらからの登城口の方が近く、徒歩では急峻ですがいいでしょう。
もう一方は山を大きく迂回し車道を登ることになります。
佐敷城は2度の破城を受けながらも、石垣はある程度復元されていますが石垣の隅石部分は無いままにになっており破城の具合もわかります。


登城日 2019年4月30日(火)
LINK 熊本県観光サイトなごみ紀行-佐敷城
佐敷城-Wikipedia
城主家紋 【蛇の目】
(称藤原北家道長流)
加藤氏家紋

                      

探訪

※パンフレットより
【佐敷城遠景】 【佐敷城ズーム】 【城址碑】
【トイレ前の説明板】 【登城路】 【本丸石垣】
【北出丸跡】 【二ノ丸北西部石垣】 【本丸・二ノ丸北西部石垣】
【二ノ丸に繋がる石段 【本丸北部石垣】 【本丸北部石垣】
【本丸北部石垣】 【本丸下北部石垣(佐敷城で一番古い石垣)】 【本丸下北部石垣(佐敷城で一番古い石垣)】
【東出丸跡】 【二ノ丸東部石垣】 【追手門跡】
【追手門跡】 【追手門跡】 【追手門跡】
【東出丸方向】 【東出丸跡】 【二ノ丸東部石垣】
【三ノ丸跡方向】 【三ノ丸跡】 【三ノ丸跡から見た二ノ丸・本丸方向】
【三ノ丸跡】 【三ノ丸石垣】 【三ノ丸石垣と南出丸方向】
【三ノ丸石垣】 【南出丸跡】 【南出丸跡にある祠】
御神体はないようです。
【二ノ丸東門跡】 【二ノ丸東門跡】 【二ノ丸東門跡】
【二ノ丸東門跡】 【三ノ丸・南出丸方向】 【三ノ丸跡】
【二ノ丸跡】 【二ノ丸西側虎口】 【貯蔵穴跡】
【本丸西門跡】 【本丸西門跡】 【本丸西門跡】
【本丸西門跡】 【本丸西門跡】 【本丸へ繋がる石段】
【本丸へ繋がる西側虎口】 【本丸へ繋がる石段上より】 【本丸城道】
【本丸虎口】
礎石があるので仕切門でもあったようです。
【本丸東側門跡】 【本丸東側門跡】
【土塁】 【本丸東側門跡】 【本丸下より見た二ノ丸跡】
【鏡積みの石垣】
薄い板石を使用して積んだ石垣
【本丸跡】 【本丸を南北に分断する城道】
【本丸からの眺望】 【本丸東側門跡】 【本丸東側門跡】




Back



inserted by FC2 system