城名 | 宇土古城(別名:中世宇土城、西岡台、名和城) | |||
住所 | 〒869-0424 熊本県宇土市神馬町 |
|||
入場時間 | − | |||
入場料 |
−
|
|||
指定文化財 | 国指定史跡 | |||
城郭構造 | 平山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 藤原頼通 | |||
築城年 | 永承3年(1048) | |||
主な改修者 | 名和氏 | |||
主な城主 | 宇土為光、名和武顕、名和顕孝、名和顕輝、皆吉武真 | |||
位置 | 北緯32度40分46秒 東経130度38分47秒 |
|||
【沿革】 中世宇土城跡は、通称「西岡台」と呼ばれる標高約39mの小高い丘陵上にあります。西岡台の東約500m「には、キリシタン大名・小西行長公が16世紀末に築城した近世宇土城跡(城山)があるため、西岡台の宇土城跡を「中世宇土城」や「宇土城跡(西岡台)」、「宇土古城」と呼んで区別しています。 中世宇土城跡南側に位置する西岡神宮の古い記録によれば、平安時代の永承3年(1048)に宇土城が造られて以後、菊池氏の一族が代々城主であったとされています。室町時代には、宇土氏と名和氏が宇土城主となりました。 宇土氏は、宇土庄(現在の宇土市街地周辺)の荘官の地位にあり、菊池氏の一族と伝えられる武家領主です。古くから宇土に勢力をおいていましたが、文亀3年(1503)に守護職・菊池氏との争いに敗れた滅びました。 一方、名和氏は室町時代の初め頃から八代市付近に勢力をおき、古麗城(八代古麗町)を本拠としてきましたが、文亀4年(1504)、相良氏と菊池氏に攻められ、八代を出て宇土へ移り宇土氏滅亡後の宇土城に入城しました。以来、80年余り名和氏は宇土城主になりましたが、名和氏が宇土を拠点としてからも、相良氏とは豊福城(宇土市松橋町)をめぐって何度も争いました。 相良家の古文書『八代日記』によれば、宇土城跡は天文7年(1538)と天文11年(1542)の2度にわたって家宰が発生したことが記録されています。また天正2年(1575)に薩摩の島津家久公が京都への旅の途中、松橋から道を北へと進んでいる時、左の方角に「宇土殿(名和氏)の城みえ侍り」と言ったことが『家久君上京記』に記されています。城を使わなくなった時期は、行長公が近世宇土城の築城を開始した16世紀末頃と考えられます。 (説明板より) 【感想】 城は大きく分けて「千畳敷」と「三城」に分けられます。千畳敷は周囲を堀と高い土塁で囲われ、入口は復元された門がある一ヶ所のみとなっています。 堀は保存のためコンクリートで固められているのが残念ですが、畝堀かと思う場所もありますが、これは単に未完成の堀残しの様です。 三城側も水路の様な溝があり、土塁の水が流れるよう水路が設けられています。 千畳敷、三城にはそれぞれ建物があったようです。 |
登城日 | 2019年5月1日(水) | ||
LINK | 宇土城-Wikipedia | |||
城主家紋 | 【帆掛船】 (村上源氏季房流) 名和氏家紋 |
※案内板より |
||
【案内板と千畳敷切岸】 階段横には竪堀の跡がありますが草が多く写真では良くわかりません。 |
【千畳敷切岸】 | 【千畳敷の土橋と坂虎口】 |
【千畳敷の土橋】 | 【千畳敷の坂虎口】 | 【千畳敷の復元門】 |
【千畳敷枡形虎口】 | 【千畳敷の復元門】 | 【千畳敷枡形虎口】 |
【千畳敷・復元建物】 | 【千畳敷・建屋跡】 | 【千畳敷・遺構跡】 説明がなくわからないが、溝でもあったのであろう。 |
【堀跡】 | 【堀跡】 | 【未完成の堀】 |
【未完成の堀】 | 【未完成の堀】 | 【堀跡と木橋】 |
【堀跡と木橋】 | 【木橋】 | 【堀跡】 |
【外堀跡】 | 【外堀跡】 | 【三城跡】 |
【城址碑】 | 【説明板】 | 【発掘調査で出土した石塔】 |
【三城の切岸】 | 【三城・建屋跡】 | 【導水状遺構】 |
− | ||
【土塁と導水状遺構】 | 【導水状遺構と水溜め状遺構】 | − |