城名 | 宇土城(別名:近世宇土城、城山) | |||
住所 | 〒869-0454 熊本県宇土市古城町 |
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入場時間 | − | |||
入場料 |
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指定文化財 | 宇土市指定史跡 | |||
城郭構造 | 平山城 | |||
天守構造 | 望楼型三重五階(非現存) | |||
築城主 | 小西行長 | |||
築城年 | 天正16年(1588) | |||
主な改修者 | 加藤清正(破却) | |||
主な城主 | 小西行長、小西行景 | |||
位置 | 北緯32度40分46秒 東経130度39分11秒 |
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【沿革】 織田信長や豊臣秀吉の時代に築かれた礎石建物や高石垣などで構成される規格化された城を織豊系城郭と呼んでいます。宇土城は熊本を代表する織豊系城郭で、江戸初期に幕府の命令により2度にわたる破却を受けたため不明な点がありますが、縄張りの検討や発掘調査の成果、絵図などの検討などから往時の宇土城の姿を推定することができます。 宇土城は幅約20mの堀で囲まれた本丸(標高約16m)を核として、二ノ丸や重臣が居住した三ノ丸を幅約30〜40mの大規模な堀で防御し、本丸北側には、家臣屋敷群を整備するなど、本丸を中心とする堅固な城郭でした。さらに、本丸の北側には、緑川河口部に通じる運河が開削され、船が行き来したと考えられています。まさにイエズス会宣教師から「海の司令官」と呼ばれた行長らしい城といえます。 関ケ原合戦後、清正は宇土城を自身の隠居所とするために大規模な改修を行いましたが、隠居することなく慶長6年(1611)に亡くなりました。清正の死の翌年、幕命により城は破却され、寛永14年(1637)の天草島原の乱後にも徹底的に破却されました。 (説明板より) 【感想】 小西行長の城である宇土城(近世宇土城)は二度の破却を受けたこともあり、遺構はあまり残っていない状態ですが、本丸と三ノ丸の間の内堀部分は浅くなっているとは思いますが良好に残っています。それ以外はあまり見どころがないのが残念です。 |
登城日 | 2019年5月1日(水) | ||
LINK | 宇土城-Wikipedia | |||
城主家紋 | 【久留子】 (藤原氏秀郷流?) 小西氏家紋 |
※案内板より想像図 |
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※案内板より1962年の航空写真 |
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【宇土城跡】 この階段の反対側が墓地で、その場所が二ノ丸跡となる |
【宇土城説明板】 | 【城址碑】 |
【本丸跡】 | 【本丸跡】 | 【小西行長像】 |
【小西行長像】 | 【本丸切岸】 | 【腰郭跡?】 本丸より一段下がっている |
【本丸切岸と内堀跡】 | 【本丸石垣】 | 【本丸石垣】 |
【内堀の石垣】 | 【屏風折れの内堀】 | 【内堀の石垣】 |
【内堀の石垣】 | 【内堀跡】 | 【内堀の石垣】 |
【内堀の石垣】 | 【内堀跡】 | 【内堀の石垣】 |