【太鼓門の武者走り】 椿坂を登り切ったところにある太鼓門は、本丸・帯郭に通じる大手門です。かつて太鼓が置かれ、藩士の登城の際に打ち鳴らされたのでこの名がつきました。 この門の右側の石垣には、太鼓門の上に兵を昇降させる為の武者走が残されています。 |
【入場券売り場前より】 | 【御三階跡】 鶴ヶ城内には石垣しか残されていませんが、幕末まで「御三階」と呼ばれる建物がありました。その後、御三階は取り壊しの難を逃れ、現在、市内の阿弥陀寺に移築保存されています。 |
【御三階跡より】 御三階の土台の上から撮影。天気がよく城の白壁が青空に映えています。 |
【蒲生御居間の庭跡】 本丸天守と反対側にあります。 |
【茶室麟閣付近より】 |
【荒城の月碑】 土井晩翠は旧制二校時代、取り壊された鶴ヶ城跡を訪れ、名曲「荒城の月」の作詞のきっかけを得たといいます。この鶴ヶ城が「荒城の月」のモデルであるとのことは、昭和21年会津若松市内で行われた講演の席で晩翠氏、自らが語り市民を驚かせました。 |
【茶壷櫓跡】 城内には常に多数の茶器類が収められていたのでこの名がつきました。 更に武器の収容を目的とした二重の塗込櫓でした。 |
【扇の勾配と廊下橋】 廊下橋は本丸から二の丸へ通じる朱塗りの橋で、加藤明成の大改修まではここが大手口でした。蘆名時代には屋根のついた廊下造りだったので、廊下橋と呼ばれました。 |
【月見櫓】 二重の塗込櫓で常に武器が収められていた所だが、城内からの月見の場所としては絶好の櫓でもあったことからこの名がつきました。 |
【飯干櫓出口付近より】 復元された鉄門と天守閣 |
【鉄門】 鉄門は帯郭から本丸へ通じる表門で、柱や扉の木の部分を全て鉄で覆ってあるので、この名がつきました。加藤明成の大改修によって造られた門で、左右の石垣は化粧たがね入り、切込ハギと呼ばれる技法で見事に築かれており、お城の正面玄関にふさわしい姿です。 |
【天守より鉄門と南走り長屋と干飯櫓】 平成12年に南走り長屋と干飯櫓が復元されました。 |
【天守より茶室麟閣】 千利休の子、小庵を蒲生氏郷が会津に匿い、豊臣秀吉に「千家再興」を願い出ました。この結果、小庵は京に戻り千家再興をし、現在の武者小路千家、表千家、裏千家になっています。 この小庵が会津に匿われていたときに氏郷のために建てたのが「麟閣」です。 一席500円でお茶を楽しめます。 |
【南走り長屋内】 昔の武器庫を再現しています。 |
【干飯櫓内】 櫓内の鉄砲狭から狙いをつけているのを人形で再現しています。 |
【干飯櫓より】 鉄門越しの天守閣 |
【本丸東側石垣上より】 ここからが天守閣が一番綺麗に見えるかも。 |
【旧大手門と廊下橋】 この橋の両側の石垣は長さが130メートル、高さ20メートルを超え、東日本では最大規模で、「忍者落とし」と呼ばれています。 |
【外堀より西出丸】 外堀からはもう天守閣はほとんど見えません。 |
【五軒丁堀】 |
【大手門跡枡形】 右に曲がると内部が見透かされぬように北出丸大手門がありました。 |
【武徳殿】 北出丸内 |
【西の丸虎口】 |
【西の丸全景】 | 【鐘撞堂】 時守を置いて昼夜時刻を城下に報じていた堂。戊辰戦争時時守が相次いで斃れたにもかかわらず、開城の最後まで正確に時を報じ、大いに味方の士気を鼓舞した。 |
【天守閣】 |
【天守閣】 | 【対面所跡】 | 【奥御殿の庭跡】 |
【表御座跡・藩主の居間跡】 | 【麟閣入口】 | 【寄付】 |
【麟閣内】 | 【麟閣内(裏側)】 | 【馬洗石】 本丸右側土手寄りに藩公が馬術を稽古するための馬場があった。この石は、馬が口洗いのために用いられたと伝えられている。 |
【天守閣】 | 【天守台石垣】 | 【天守閣入口】 |
【天守台石垣】 天守地階部分 |
【塩蔵】 天守地階部分 |
【天守からの眺望】 |
【天守からの眺望】 | 【二の丸】 現在はテニスコートですが、テニスコートを移動か撤去する動きがあります。 |
【伏兵郭】 ここもテニスコートになっています。 |
【三の丸】 現在は福島県立博物館になっています。 |
【北側井戸】 鶴ヶ城稲荷神社脇、水がありました。 |
【対面所跡付近井戸】 柵内のため、内部確認できず。 |
【本丸東側井戸】 麟閣脇、楓が自生していました。 |
【本丸南東側井戸】 荒城の月碑付近、ここにだけお賽銭?が入っています。 |
【馬洗石近くの井戸】 |
【天守脇井戸】 柵内のため、内部確認できず。 |
【天守閣内井戸】 天守閣から売店へ行く脇にあります。内部は樋みたいなものが落ちていました。 |
【笠間稲荷神社付近井戸】 水は枯れていました。 |
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【二の丸井戸】 テニスコートの脇。水有り。 |
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