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城名 | 二本松城(別名:霞ヶ城、白旗城) | ||
住所 | 〒964-0904 福島県二本松市郭内3丁目・4丁目 |
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入場時間 | 終日開放(菊人形はAM8:30〜PM5:00) |
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入場料 | 無料(菊人形は大人1200円 小中学生600円) 年中無休 |
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指定文化財 | 国定史跡 | |||
城郭構造 | 悌郭式 平山城 | |||
天守構造 | 不明 | |||
築城主 | 二本松満泰 | |||
築城年 | 室町時代中期 | |||
主な改修者 | 丹羽光重 | |||
主な城主 | 畠山(後二本松)氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、丹羽氏 | |||
位置 | 北緯37度35分58.71秒 東経140度25分40.75秒 |
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地図 | 1 | 大手門跡 | ||
2 | 箕輪門 | |||
3 | 天守台 | |||
4 | 搦手門跡 | |||
5 | 日影の井戸 | |||
100名城 スタンプ |
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【沿革】 二本松城は、室町時代中期の興国2年(1341)、足利幕府から奥州探題に任ぜられた畠山高国が下向し、この地塩沢の殿地岡に居館を構え、二本松と改称したことにはじまり、140年余り続きました。 4代目畠山満泰のとき、応永20年(1413)、山麓の居館からさらに山上にも城郭を築き、畠山性から二本松氏を名乗った。12代目二本松義継のときの天正12年(1584)伊達氏と争い、伊達輝宗を謀殺し、義継もまた伊達政宗に殺された。翌年、義継の子義満は正宗に攻められ、二本松氏は滅亡した。 二本松城は伊達氏の支城になったが、天正18年(1590)小田原征伐ののち豊臣秀吉は会津に蒲生氏郷を封じ、会津城主となった氏郷の重要な支城として、中通り(仙道)警備の任を与えられました。 その後、徳川時代初期も会津領として、松下重綱が五万石、加藤明利が三万石で入封したが、寛永20年(1645)丹羽光重が白河より十万七千石で二本松藩初代藩主で入城し、幕末まで丹羽氏10代の居城として、220有余年続きました。丹羽光重は、幕府の許可を得て正保3年(1646)から築城工事を起し、中世的な城を近世大名の居城として大改築し、完成は、十年後の明暦元年(1655)ごろであった 丹羽光重は、奥州街道に標高354メートル、山麓大手門からの高さは63間半(約114メートル)の山上に本丸を石垣で積み上げ、三層の天守を構え、山麓に郭を造り城下町を整えた。本丸は正しい矩形ではないが、東西20間、南北29間、小規模な単郭であるが、四方は4間ほどの打込みはぎの石垣をめぐらしている。山上の本丸と山下の大手門とは、一筋の8町40間(約950メートル)の道で連絡し、その両側には北側に六つ、南側に五つの重臣たちの屋敷があった。 この正面の道の中ほどから南へ折れる道があって、これが本丸の尾のまわりをまわり、また正面の道に平行して東西に通じる南側と北側との道に連絡していた。この両方の道に、それぞれ新城館山、松森館山という砦がある。両方の道の両側にもそれぞれ十七、十一の侍屋敷がびっしりと道をはさんで存し、それによって両側からこの道を守ことができるようになっていた。 戊辰戦争のとき二本松藩は奥州同盟に加わり、官軍と戦った二本松少年隊の悲話が会津の白虎隊哀史とともに残っている。戊辰戦争に際し、西軍との徹底抗戦で城内・家中屋敷のすべてを焼失し、慶応4年(1868)7月29日に落城しました。山上の本丸にあった天守も、明治5年(1872)に廃城となった。 【感想】 二本松駅からは山を一つ越えた場所にあり、その山を登ったところにあると思ったらそこから少し遠くに城らしき姿が見えるので駅からは遠く感じます。行った時期は菊人形の時期で人は大勢いて箕輪門付近はゆっくりと見られませんでしたが、本丸の方は人も少なく遺構をゆっくり堪能できました。天気が良ければ天守台から見る安達太良山の絶景が見えるはずだったのに残念でした。 |
スタンプ 設置場所 |
二本松歴史資料受付 (入場料:100円) |
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登城日 | 2008年11月2日(日) | |||
LINK | 二本松観光協会HP | |||
二本松城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【二つ引両】 (清和源氏足利氏流) 畠山家家紋 |
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【竹に二羽飛雀】 (藤原氏山陰流) 伊達家家紋 |
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【直違い】 (武蔵七党児玉党) 丹羽家家紋 |
【大手門跡】 久保丁口に築造された堀をともなった大手門で、通称「坂下門」ともいった。 |
【登城道】 大手門が坂下門と言われた由来がこの地形でわかります。ただ、城はこの上にはなくこの坂を越えて下りなければいけません。 |
【久保丁門跡礎石】 二本松歴史資料館敷地内にある。 久保丁門は大手門が作られるまで大手門の役割をしていた。 |
【二本松藩丹羽家上屋敷跡出土の石垣石材】 二本松歴史資料館敷地内にある。 江戸にあった上屋敷のものを移築展示。 |
【箕輪門の二重櫓】 昔の絵図を見る限り二重櫓はなかった。 絵図面は二本松歴史資料館で見ることができます。 |
【二本松少年隊群像】 戊辰戦争激戦地・大壇口での少年隊奮戦姿と我が子の出陣服を仕立てる母の姿を表している。 |
【箕輪門と二重櫓】 菊人形が邪魔です。お城見るにはこの時期を外した方がよいでしょう。 |
【箕輪門西側石垣と大城代・内藤四郎兵衛戦死の地】 | 【二重櫓】 |
【箕輪門(正面)】 御殿の建築とともに建造。樫の木を箕輪村(現在の市内)山王寺山の御神木を用い、門として完成したことから「箕輪門」と命名。 |
【箕輪門(内側)】 | 【三の丸から枡形内部の石垣】 |
【土井晩翠歌碑】 「花ふぶき 霞が城の しろあとに 仰ぐあたたら 峯のしら雪」 |
【智恵子抄詩碑】 |
【少年隊の丘・新城館跡】 少年隊がここで練習をしていたことから少年隊の丘と命名。 蒲生秀行・忠郷のときに二城代が東城と西城詰めていた。 新城館はその西城にあたります。 |
【日影の井戸】 千葉県印西市の「月影の井戸」、神奈川県鎌倉市の「星影の井戸」と共に日本の三井といわれる。 |
【日影の井戸の中】 |
【搦手門跡】 お城の裏門。今は門台石垣と門柱礎石のみが残る。 |
【搦手門の門柱礎石】 | 【搦手門の門台石垣】 | 【霞ヶ城址碑】 |
【本丸南西側石垣】 | 【本丸北西側石垣】 | 【本丸北東側石垣】 |
【本丸枡形虎口】(本丸南東側) | 【天守台】 | 【天守台からの眺望】 晴れていれば正面に安達太良山が綺麗に見えるのですが、この日は生憎の曇り空。雲間からの光が神々しい。 天守台や本丸からの眺めは絶景です。上ってきた疲れは飛んじゃいます。 |
【東櫓台】 | 【西櫓台】 | 【本丸全景】 |
【丹羽和左衛門・安部井又之丞自刃の碑】 戊辰戦争による二本松城落城に際して、ともに自刃した両人の供養碑。 |
【本丸南面大石垣】 | 【二本松藩士自刃の地】 戊辰戦争による二本松城落城に際して主戦論者であった家老・丹羽一學、城代・服部久左衛門、中老・丹羽新十郎新十郎の三名が責任を取り自刃した地。 |
【霞ヶ池と洗心亭】 | 【七ツ滝】 | 【洗心亭】 城址内に唯一残る江戸期の建造物で木造茅葺き・寄棟平屋造りの茶亭。当時は「墨絵の御茶屋」といい、光重公がこよなく愛した。 |
【るり池】 光重時代の造園の姿を今に残す。布袋滝との組み合わせが小規模な回遊式庭園ながら、自然と一体感をかもし出している。 |
【布袋滝】 | 【【霞ヶ城の傘松】 別称「八千代の松」ともいわれるアカマツの巨木で、樹齢300年を超す。 |
霞ヶ城の傘松】 紅葉がもっと色ずけばここは紅葉の絨毯に。】 |
【洗心滝】 | 【智恵子の藤棚】 智恵子の生家にあった藤を移植。 |
お店全景 |
天ざるそば \1,480-だったと思います。 |
ジャンル:そば 店名:戒石茶屋 住所:福島県二本松市郭内3-253-7 TEL:0243-23-1055 お城のすぐそばにあります。 営業時間はちょっとわかりませんが、お城を出る頃にはしまっていました。(写真左) 三連休の最終日で二本松菊人形の日程が重なったためか昼時は満席状態。 注文にも時間がかかり、待っているお客さんの方が多かったような気がします。混雑時におばあちゃん二人がフロアはきついですね。 注文して待つこと40分、出てきたのが写真右。 まずかったらシャレにならない状態でしたが、麺が少し柔らかめでしたがおいしかったです。 混雑してないときに来れば、満足いくと思います。 |