城名 山形城(別名:霞ヶ城)
住所 〒990-0826
山形県山形市霞城町3
入場時間 4〜10月:5時〜22時
11〜3月:5時30分〜22時
休城日:無休
入場料 無料
指定文化財 国史跡
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 なし
築城主 斯波兼頼
築城年 1356年(南朝:正平11年、北朝:延文元年)
主な改修者 最上義光、鳥居忠政
主な城主 最上氏、鳥居氏、堀田氏、秋元氏他
位置 北緯38度15分12.84秒
東経140度19分44.56秒
地図 東大手門枡形
一文字石垣(本丸大手門跡)
本丸
二の丸追手門跡
北東隅櫓跡
100名城
スタンプ
沿革】
山形城のはじまりは正平11年(延文元年(1356))足利幕府より出羽按察使に任じられた斯波兼頼が最上郷金井庄に居城を構えたことによると言われている。後に斯波氏は最上氏を名乗り、領内を山形と改めた。以降天童・上山など各所に館を配して、「最上四十八楯」といわれる勢力圏をしいた。

特に十二代義光のとき戦国大名として成長を遂げ、文禄元年(1592)、義光は山形城の拡張の工を起こし、新たに本丸・二の丸・三の丸を造り、天守代用の三階櫓を含めて十数棟の櫓が設けられ、東北の押さえの城としてふさわしいものとした。

天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原討伐のとき参戦し、関ヶ原合戦時には徳川家康に加勢し、西軍の上杉景勝配下の直江兼続(米沢城主)と戦って功績をあげ、二十四万石から加増されて、五十七万石となった。俗に最上100万石、支城48城を数える大大名であった。

この後、最上氏は義光の孫、義俊のとき、世継ぎ問題に絡む重臣間の争いから、元和8年(1622)に改易となった。徳川幕府の外様大名取り潰しの思惑もあったという。俗に言う最上騒動である。
最上氏のあと、鳥居忠政が二十四万石で入封したが、寛永13年(1636)、保科忠正が二十万石で代わった。
こののち、結城、松平、奥平、堀田、結城、松平、堀田、大給、秋元氏とめまぐるしく城主が代り、弘化2年(1845)水野忠精が入封すると、以降世襲して明治に至った。

山形城は二の丸から三の丸の間が圧倒的に広く235万uある。江戸城が230万uの広さなので、山形城がいかに大きいかがわかる。

【感想】
本格的に御城めぐりをする前に訪れたお城で、写真があるのは東大手近辺のみになっています。再度訪れるのが楽しみなお城です。
また、最上義光公の銅像の出来は躍動感がりまさに戦国武将と感じさせるものです。

スタンプ
設置場所
山形市郷土館・最上義光歴史館
登城日 一回目:2003年8月1日
二回目:2009年5月1日
三回目:2014年7月18日(金)
LINK 山形旅行 - 観光、温泉、名所、宿泊
山形城-Wikipedia
城主家紋 【二つ引両】
(清和源氏足利氏流))
最上家/斯波家家紋
【竹に宿り雀】
(熊野権現神職後裔)
鳥居家家紋

                      

   
探訪
【南西側堀】 【ニの丸南追手門跡】 【南東側堀】
【ニの丸南追手門虎口跡】 【ニの丸西側発掘現場】 【ニの丸西側虎口〜西不明門跡】
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【東大手門〜一之門・虎口】 【東側堀と奥羽本線】 【東大手門全景】
【最上義光歴史館】 【本丸一文字門石垣と大手橋】 【大手橋】
【山形市郷土館】 【山形城廃跡碑】
山形市郷土館左手奥、巽櫓下付近にある。
【山形城全景】
霞城セントラル展望室より(三の丸)
探訪(2014.07.18)
【本丸一文字門石垣と大手橋】
築地塀と一之門が復元された。
【本丸一文字門石垣と大手橋】 【本丸の発掘現場】
【二ノ丸巽櫓台・石垣】 【横矢】 【築地塀跡と整備された土塁上】
二ノ丸の南東側土塁は整備され散歩コースになっている。それに伴い築地塀跡も見やすくなった。
【二ノ丸追手門枡形】




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