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城名 | 大田原城(別名:龍城、龍体城、前室城) | ||
住所 | 〒324-0052 栃木県大田原市城山2丁目 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | 市史跡 | |||
城郭構造 | 平山城 | |||
天守構造 | − | |||
築城主 | 大田原資清 | |||
築城年 | 天文12年(1543) | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 大田原氏 | |||
位置 | 北緯36度52分6.05秒 東経140度02分4.55秒 |
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地図 | 1 | 本丸 | ||
2 | 二ノ丸 | |||
3 | 北曲輪 | |||
4 | 堀切 | |||
5 | 坂下門 | |||
【歴史・沿革】 比高約25mの龍体山を城域としていた。天文12年(1543)に大田原資清によって築かれた。 大田原氏は下野国の戦国大名那須氏配下の那須七党(那須七騎)の一つである。 天正18年(1590)の小田原の役で、城主の大田原晴清は小田原の豊臣秀吉のもとに参陣したことから、参陣せず所領を没収された主家の那須氏とは対照的に所領が安堵され、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでも城主の大田原晴清が東軍に属したことから徳川家康から加増され、江戸時代には1万5000石の大名となった。 大田原藩はその後、小藩ながら一貫して大田原氏を藩主として幕末にいたった。明治元年(1868)の戊辰戦争において、藩主の大田原一清は早くから新政府軍側についたことから、奥羽越列藩同盟の諸藩から敵視された。新政府軍の会津攻撃の拠点となることをおそれた会津藩兵の攻撃によって、城下とともに大田原城は三の丸を焼失。明治3年(1873)の廃城令により廃城・破却となった 【感想】 龍城公園として整備されており改変もあるとは思うが、お家断絶などの多い時代において大田原氏が明治まで治めてたと思うと非常に感慨深い場所である。遺構としてはそれほど多くはないが土塁や堀は昔を偲ぶことが出来る。 |
登城日 | 2015年08月11日(火) | ||
LINK | 大田原氏観光協会-龍城公園(大田原城址)- | |||
Wikipedia-大田原城- | ||||
城主家紋 | 【丸に釘抜】 (武蔵七党丹党流) 大田原氏家紋 |
※案内板より |
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【三日月堀】 | 【三日月堀】 | 【坂下門跡】 |
【坂下門内の土塁】 案内板の絵と異なる形状を成している。 |
【案内板】 | 【千石倉跡】 |
【堀切跡】 | 【二ノ丸】 | 【虎口】 この先に稲荷曲輪があった。 |
【二ノ丸土塁】 当時二ノ丸は土塁で囲まれていたようである。 |
【硝煙庫跡】 | 【堀切に架かる橋】 |
【堀切】 本丸と二ノ丸を区切る堀。 |
【本丸虎口】 | 【台門跡】 石垣を用いた重曹門であった。 |
【本丸跡】 | 【本丸土塁】 本丸は4,5mはある土塁に囲まれている。 |
【武庫跡】 |
【諸役所跡】 | 【本丸土塁上】 | 【裏門跡】 ここを降りて行くと案内板がある道に下りられる。 |
【堀切】 本丸と二ノ丸を区切る堀切。 |
【本丸北側空堀(横堀)跡】 | 【本丸北側空堀(横堀)跡】 |
【本丸北側空堀(横堀)跡】 | 【城址北側に流れる蛇尾川】 | 【北曲輪北側付近】 |
【北曲輪土塁】 | 【北曲輪南側付近】 | 【公園碑と城址碑】 |
【光真寺本堂】 | 【大田原資清公像】 | 【大田原城主之墓所】 |
【大田原城主之墓所】 | 【大黒堂】 | 【三十三観音】 |
ジャンル:ステーキ 店名:まつ坂 住所:栃木県大田原市美原1-6-6 TEL:0287-23-6275 営業時間:11:30〜14:00、17:00〜20:45 定休日:木曜日 大田原牛とまではいかないがランチタイムでは手頃な価格で大田原の和牛の肉を堪能できます。その為店内はお客さんが多いため余裕を見て訪れるのが良い。 メニューはステーキ以外にもいろいろあります。 写真はステーキランチ |