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城名 | 烏山城(別名:臥牛城) | ||
住所 | 〒321-0631 栃木県那須烏山市城山 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | − | |||
城郭構造 | 山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 那須資重 | |||
築城年 | 応永25年(1418) | |||
主な改修者 | 那須資実、堀親昌 | |||
主な城主 | 那須氏、成田氏、板倉氏、堀氏、大久保氏など | |||
位置 | 北緯36度39分50秒 東経140度08分51秒 |
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地図 | 1 | 本丸(二ノ丸)跡 | ||
2 | 古本丸跡 | |||
3 | 常盤曲輪跡 | |||
4 | 北城(北曲輪)跡 | |||
5 | 中城跡 | |||
【歴史・沿革】 応永21年(1414)頃、那須氏は那須家の家督を継いだ福原城主那須資之と、その弟の沢村五郎資重の関係が悪化し、上那須家と下那須家に分裂した。この城は、応永25年(1418)に、下那須家初代当主となった資重によって築かれたとされている。 その後、下那須家はこの城を本城としてきたが、永正11年(1514)に下那須家は滅亡して那須氏は統一されたが、烏山城はその後も那須氏の居城となって存続した。 その後、那須氏は宇都宮氏や常陸国の佐竹氏による攻撃をたびたび受け、城下まで攻め込まれることもあったが、城を保った。 天正18年(1590)、那須氏は豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)に参陣しなかったことから、戦後秀吉に改易され、那須氏は断絶した。 その後、城主として2ヵ月間と短期間ではあったが、織田信長の次男の織田信雄が入城したことがある。 その後、武蔵忍城主の成田氏長が入封した後、那須資晴は徳川家康から旧領の5000石を与えられて那須家が再興され、その子資景にも5000石が与えられて大名に復帰し福原城の一郭に陣屋を設けた。しかし、後嗣がいないことを理由に除封となる。 その後、那須家は増山正利の弟高春を養子に迎え、高春は那須資弥と改名して天和元年(1681)には烏山藩2万石の大名として、烏山城を居城とした。しかし、資弥にも嫡男がいなかったために家督争いが起こり、それを理由に貞享4年(1687)に、那須家は改易・断絶となった。 その後、烏山藩は永井氏、稲垣氏ののちに、大久保常春が入封し、以後大久保氏が代々藩主をつとめて明治に至り、明治2年(1869)、版籍奉還に伴い烏山城は廃城になった。明治5年(1872)には積雪により三の丸御殿が倒壊し、明治6年(1873)には失火により古本丸、二の丸、中城、北城の建物が焼失してしまった。現在、城跡は県立自然公園となっているが、石垣・土塁などの遺構がよい状態で残っている。 また、搦手門が同市内に移築され現存している。 【感想】 登城口である七曲り付近は藪化しており、登城を拒むかのように感じたが藪を通り越すと森の中となり日が照らないのか藪はなくなる。七曲りを上り詰めると草は多いが主郭部はそれなりに確認はできる。関東では珍しい石垣も見られるが、東北の震災の影響で崩れやすくなっているようです。主郭部以外の中城、北城は藪化がすごく詳細がわからない。また空堀も同様に藪化していて入ることが出来なかった。この城は草木が枯れる秋・冬に来た方が良いだろう。 |
登城日 | 2015年08月14日(金) | ||
LINK | 那須烏山市HP-烏山城跡- | |||
Wikipedia-烏山城- | ||||
城主家紋 | 【一文字】 (藤原北家道長流) 那須氏家紋 |
※城内案内板の烏山城縄張図より |
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※案内板より |
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【三ノ丸跡】 三ノ丸は数段に分かれているようで鳥居の右側に見える土塁の上に館跡があったようです。 |
【三ノ丸跡】 一番高い場所には寿亀神社が建つ。 |
【三ノ丸池跡】 寿亀神社の裏にある。 |
【登城口に続く道】 | 【七曲り】 大手口から続く大手道。 |
【七曲り】 |
【七曲り上の分岐と太鼓丸(太鼓楼)跡】 太鼓丸(太鼓楼)は烽火台とも言われている。 |
【太鼓丸(太鼓楼)跡と登城道】 | 【車橋跡】 |
【堀切】 | 【常盤門跡】 | 【番所跡】 |
【常盤曲輪石垣】 | 【吹貫門跡】 | 【正門跡】 |
【正門跡跡の石組】 | 【正門跡の石組】 | 【本丸石垣跡】 |
【本丸と若狭曲輪との間の空堀】 | 【本丸(二ノ丸)跡】 明応年間(1492〜1501)、那須資実が行った城域拡張の際に築かれた。古本丸が使用されなくなると実質的な主郭となった。 |
【本丸と古本丸との間の堀切】 |
【本丸と古本丸との間の堀切】 | 【古本丸跡】 | 【古本丸跡】 享禄年間(1528〜1531)の火災により建物が焼け、その後再建されず本丸(二ノ丸)に主郭が移った。 |
【堀切と中城跡】 |
【古本丸と中城との間の堀切】 | 【古本丸側切岸と階段】 |
【中城跡】 この時期は藪化しており、道がかろうじてわかる程度であった。 |
【中城と北城(北曲輪)との間の堀切】 | 【北城(北曲輪)虎口】 |
【北城(北曲輪)跡】 この場所には侍屋敷が建っていた。中城以上に藪化が激しい。 |
【十二曲りへと続く分岐】 十二曲りは搦手口から続く搦手道になる。 |
【桜門跡】 主郭部の搦手門。 |
【桜門跡の礎石】 | 【古本丸と中城との間の堀切】 | 【厩跡】 |
【本丸と古本丸との間の堀切】 | 【常盤曲輪・塩倉跡】 | 【常盤曲輪跡】 城の正面を守る曲輪として重要なため、土塀や堅固な櫓門が築かれていた。 |