城名 与板陣屋/與板城(別名:井伊家与板城)
住所 〒940-2402
与板陣屋跡:新潟県長岡市与板町与板甲134
與板城跡 :新潟県長岡市与板町与板甲339番地1
入場時間
入場料
指定文化財
城郭構造 牧野・井伊時代:陣屋/井伊直朗以降:平城
天守構造 なし
築城主 与板陣屋:牧野康成
與板城 :井伊直朗・井伊直暉
築城年 与板陣屋:寛永11年(1634)
與板城 :文政6年(1823)完成
主な改修者
主な城主 与板陣屋:牧野氏、井伊氏
與板城 :井伊氏
位置 与板陣屋:北緯37度32分26秒 東経138度48分34秒
與板城 :北緯37度32分39秒 東経138度48分40秒
【歴史・沿革】
越後長岡藩初代藩主・牧野忠成の次男康成が寛永11年(1634)に三島郡与板に1万石を分与され、長岡藩の支藩として立藩した。正しくは與板と称する。藩主の政庁は上杉氏の家老・直江兼続の居城として知られ、廃城となった与板城址の麓に陣屋を置いて、与板近辺を支配した(現長岡市与板支所)。しかし、康成は領地を賜ってから陣屋には23年間移らなかった。

第2代藩主・牧野康道のとき元禄15年(1702)信濃小諸藩1万5,000石に転封された。内実は3万石の領地が与えられたのであったが、公称(表高)は、1万5,000石に抑えられたのであった。これは、当時の藩主である3代目の康重が将軍・徳川綱吉の母・桂昌院の実弟・本庄宗資の実子であるという縁から綱吉に引き立てられ、小藩ながら城持ちで格式の高い小諸に栄転させられたものである。

与板侯・牧野氏が小諸城主に栄転となると、しばらく天領となったが、宝永2年(1705)近江彦根藩井伊氏の嫡流筋にあたる井伊直矩は、義父で遠江掛川藩主であった直朝が精神疾患を理由に改易となった後、家名存続が許され2万石で与板に入封し、再び立藩し彦根藩の支藩として廃藩置県まで存続した。掛川時代は城主大名であったが無城大名に降格し、参勤交代を行わない江戸定府となった。文化元年(1804)6代直朗は若年寄(就任:1781年 - 1812年)としての功績により城主格となり、参勤交代が認められた。それを機に与板城(陣屋から格上げ)の建設が行われ、文政6年(1823)、7代井伊直暉の時に完成した。

慶応4年(1868)戊辰戦争の際、最後の藩主・井伊直安(養子であって、大老・井伊直弼の四男)は早々に新政府軍についた宗家彦根藩にならって新政府軍に恭順した。これに対し、奥羽越列藩同盟軍は「勤皇の与板藩」を攻撃するため、地蔵堂(現・新潟県燕市地蔵堂)、大川津(現・同市大川津)から与板へ進撃した。与板藩兵と同盟軍との間で激戦が展開された。5月28日戦火で与板城が焼失したが、大手門(搦手門)・切手門の焼失は免れた。
(参考文献:Wikipedia 与板藩、与板陣屋)

【感想】
与板町には実質与板城が4つあるのですね。直江兼続の居城「与板城」、その与板城に移る前の「本与板城」、そして牧野・井伊時代の「与板陣屋」に井伊直朗が城主格になって建てられた「與板城」である。与板の地に来るまで「与板陣屋」に「與板城」の存在すら知りませんでした。
牧野・井伊時代の陣屋跡には与板支所があり遺構は何もないので、その規模も謎。與板城も戊辰戦争時に焼失してしまっており、その後宅地開発などにより城域はわからない。ただ移築現存する城門だけが唯一の遺構なのであろう。


登城日 2016年05月01日(日)
LINK 長岡市HP-長岡城-
与板陣屋-wikipedia-
与板藩-wikipedia-
城主家紋 【丸に三つ柏】
(紀氏流/蘇我支族)
牧野氏家紋
【橘】
(藤原氏冬嗣流)
井伊氏家紋

                      

  
探訪〜牧野家・井伊家陣屋跡〜
牧野家・井伊家陣屋跡案内板】 【牧野家・井伊家陣屋跡】
牧野時代はここに陣屋があった。現在は与板支所となっているが、この場所に陣屋があったことを示すものは左の案内板のみである。
探訪〜與板城跡〜
【與板城跡(与板藩城館跡)・模擬冠木門】
牧野時代の陣屋跡から南に移動され井伊時代に城主格となったのを機にこの場所に築城した。
【與板城跡】
現在は与板ふれあいセンターになっている。
【與板城址碑】
與板城・切手門(表側)】
恩行寺に移築され現存している。
【與板城・切手門(裏側)】 與板城・大手門】
西本願寺新潟別院に移築され現存しているが、傷みがひどい。隣りに兼続お船ミュージアム(与板歴史民俗資料館)がある。



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