城名 蔵王堂城(別名:蔵王城)
住所 〒940-0027
新潟県長岡市西蔵王
入場時間
入場料
指定文化財 長岡市指定文化財
城郭構造 平城
天守構造
築城主 中条氏
築城年 南北朝時代
主な改修者 長尾為重
主な城主 中条氏、古志上杉氏、堀氏
位置 北緯37度28分0.38秒
東経138度50分57.97秒
地図 本丸跡
水堀
南側土塁
北側土塁
堀直竒公像
【歴史・沿革】
現在の安禅寺、金峰神社の地が城跡。
安禅寺の地が本丸に相当し、西側を除く三方に土塁が、東と南の二方に水堀が残る。ただし、水堀はかなり埋められているようである。
南側に残る土塁は鷹さ5mほどある重厚なものであり、一部に石垣が残り櫓が建っていたのではないかと思われる。
これに対して北側の土塁は規模が小さい。しかし、この土塁の外側周囲は完全に宅地化しており城の存在を思わせる雰囲気はまったくない。

城の歴史は古く南北朝時代、蔵王権現を祀る蔵王堂の地に北朝方の中条氏が陣屋を構え、それを元に砦を築いたことが始まりという。
このため、正平7年(1352)南朝方の風間信昭らの攻撃を受けている。戦国時代には、古志長尾家の長尾景春が入るが、4代後、孝景の代に古志長尾家本家は栖吉城に移る。蔵王堂城は長尾為重が拡張改修し、本格的な城郭とし栖吉城と双頭の城として、古志長尾家の長岡地方の領土支配となる。

おそらく、古志長尾家の経済を支えたものの一つである信濃川の海運支配に対しては、この蔵王堂城の方が有利だったのではないかと思われる。その古志長尾家は景信の代に、御館の乱で景虎側に付き滅亡。その後、古志長尾家の領土は上杉家の直接支配を受け、会津移封まで上杉家家臣の川田氏が治める。

上杉家の会津移封後、春日城に入った堀秀治の弟の堀親良が入る。堀氏が飯山に転封後、松平忠輝の家臣 山田隼人が入城し、福嶋藩(高田藩)の支藩扱いであった。忠輝が改易されると堀直竒が蔵王堂城主として復活、蔵王堂城藩が出来る。しかし、蔵王堂城は信濃川の脇にあったため、度々水害の被害を受けるため、以前の統治時代に築城を開始し、転封で工事を中断していた長岡城築城を進め、長岡城完成移転したため、蔵王堂城は廃城となった。

廃城となった蔵王堂城の跡地には安禅寺の境内地とされ、そこに蔵王権現の社殿(蔵王権現現之宮)が構えられた。

平城としては新潟県最古でしかも原形をとどめる唯一のものとして、城跡は市文化財に指定されている。
(堀直竒公像前にあった説明文より)

【感想】
長岡駅からでも歩いていける距離にありますが最寄り駅は北長岡駅になるようです。列車待つなら歩いていけますけどね。
住宅街を抜けると木々が徐々に多くなり蔵王公園にたどり着きます。蔵王公園が二ノ丸跡になり、その隣には水堀が残る本丸跡があります。
南側の土塁は規模も大きく立派です。北側は規模が小さく土塁の北側はかつて堀だったかのように感じることは出来ました。南側土塁の内側上方に石垣が残っていますので見逃さないように。


登城日 2016年05月02日(月)
LINK 金峰神社HP-蔵王堂城跡-
Wikipedia-蔵王堂城-
城主家紋 【酢漿草】
(桓武平氏三浦氏流和田氏族)
中条氏家紋
【九曜巴】
(桓武平氏良文流)
古志長尾氏家紋
【釘貫】
(藤原北家利仁流)
堀氏家紋

         

  
探訪

※金峯神社境内にあった蔵王堂城説明図より
【蔵王公園入口】
この場所が二ノ丸跡になる。
【蔵王堂の大欅】
長岡市指定文化財・天然記念物
【金峯神社】
二ノ丸跡の中央に建っている。
【本丸南東側水堀と土塁】 【本丸と玉橋】
【玉橋】
【本丸北東側水堀】 【本丸南東側水堀】 【本丸南側土塁】
【土塁上の蔵王城址碑】 【本丸跡】
現在は毘沙門堂、観音堂などが建っている。
【蔵王堂城跡標柱】
【堀直竒公像】
蔵王堂城藩初代藩主
【堀直竒公像と本丸土塁】 【土塁に残る鉢巻石垣】
この上に櫓があった可能性があるそうです。
【毘沙門天堂】 【毘沙門天堂】
ちなみに多聞天は毘沙門天の別名です。
【本丸北側土塁】
南側に比べて低く規模が小さい。
【本丸北東側水堀】 【本丸北側土塁上】 【本丸北側土塁】
本丸の一部は私有地もあるので立入禁止の部分があります。
【本丸南側水堀】 【近くを流れる信濃川】
天然の外濠かと思いましたが度々水害被害が出て、長岡城移転の原因でもあった。
【松代藩士の墓】
北越戊辰戦争で西軍の一翼を担って参戦した松代藩士石内に宿陣していた。
慶応4年(1868)7月、八丁沖渡河奇襲作戦で蔵王に追いつめられた西軍を援助するため、松代藩士は長岡藩士と激闘した。この墓は、その時の戦いと各地で戦死した松代藩士14名を弔って明治元年(1868)10月に建てられた。



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