城名 | 中城(別名:武蔵中城) | ||
住所 | 〒355-0328 埼玉県比企郡小川町大字大塚 |
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入場時間 | − | ||
入場料 | − | ||
指定文化財 | 町指定史跡(仙覚律師遺跡として) | ||
城郭構造 | 平山城 | ||
天守構造 | なし | ||
築城主 | 猿尾(ましお)氏 | ||
築城年 | 伝承:鎌倉時代 発掘調査:築城面の検出時期は、15世紀後半 |
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主な改修者 | ? | ||
主な城主 | 猿尾種直、斎藤重範 | ||
位置 | 北緯36度03分21.6秒 東経139度15分18.8秒 |
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【歴史・沿革】 伝承では、中城は、小川盆地に臨む秩父山系の舌状台地の先端部に約100m四方に巡らした単郭式の城砦で、鎌倉時代に増尾郷の豪族で郷内にある猿尾荘を領していた猿尾種直の居館だったとされている。 鎌倉時代に天台宗の学僧であった仙覚が、この地で万葉集の註釈本「萬葉集註釈」を完成させ、 万葉集研究の礎を築いたとされている。 室町時代初期(建武年間)には、斎藤重範が同地の地頭となって支配したと伝えられている。 戦国時代には、腰越城の支城として利用され、江戸時代に入ると旗本金子伊予守の陣屋が置かれていた。 昭和55年に春日会館の建設に伴って発掘調査が実施され、築城面と見られる面の検出と、その面から土鍋が出土した。土鍋の年代は15世紀(室町時代)のもので、城郭構造や出土品の総合的検証から、築城年代は15世紀後半とされている。 伝承も考慮すると鎌倉時代頃は方形の居館で、その後、室町時代になり防御を堅め城郭へと改修されたのかも知れない。 (参考文献:「埼玉の城 127城の歴史と縄張」 梅沢太久夫) 【感想】 城跡は、小川町駅から1kmも離れていない小高い台地上にあり、周囲は住宅街の為、登城口に悩みました。GoogleMapで見ると北側に駐車場と水辺の遊歩道らしきものがあったので、そこを目指すと登城口がありました。 斜面を登り土塁、空堀、土塁と二重土塁がいきなり目に入ってきます。外側の土塁は1m程度ですが内側は5,6mはあります。 北側の坂小口から入ると、本郭になり大半がテニスコートに・・・ 本郭の西側には小口が設けられその周辺に屏風折れの土塁、櫓跡が見られ横矢掛かりの構造になっています。構造は単郭ですが、周囲の土塁等は見るべきものがあります。 |
登城日 | 2020年08月04日(火) | |
LINK | − | ||
城主家紋 | − |
※中城跡実測図(改訂歩いて廻る「比企の中世・再発見」 埼玉県立嵐山史跡の博物館 より) |
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【北側堀跡】 | 【北側斜面】 | 【北側登城口】 |
【空堀と二重土塁】 | 【空堀と二重土塁】 | 【空堀と二重土塁】 |
【北側坂小口と内側の土塁・空堀】 | 【本郭跡】 | 【本郭跡】 |
【仙覚律師遺跡の説明板】 少しだけ中城の説明あり。 |
【仙覚律師遺跡の碑】 | 【本郭跡と内側土塁】 |
【内側土塁】 | 【内側土塁上】 左:本郭跡 右:空堀と外側土塁 |
【西側小口周辺の屏風折れ】 |
【西側小口】 | 【櫓跡】 櫓跡には半僧房大権現堂が建っている。 |
【櫓跡(半僧房大権現堂)】 |
【櫓跡】 | 【西側小口(内側より)】 | 【櫓跡下より見た西側小口と屏風折れの堀】 |
【平場から見た西側小口・櫓跡周辺】 | 【西側の平場】 この箇所は城ではないようです。 |
【南側にある指標】 この近くに南側登城口へでる通路がある。 |