城名 | 柏の城 | |||
住所 | 〒353-0007 埼玉県志木市柏町3丁目 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | − | |||
城郭構造 | 平城 | |||
天守構造 | − | |||
築城主 | 大石顕重 | |||
築城年 | 室町中期 | |||
主な改修者 | ? | |||
主な城主 | 大石氏、福山月斎 | |||
位置 | 北緯35度49分57.8秒 東経139度34分11.0秒 |
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【歴史・沿革】 柏の城は、木曽義仲の子孫で武蔵屈指の郷億大石氏が室町中期に造った居館である。そして京都聖護院の門跡道興准后が文明18年(1486)から翌年にかけて関東各地を巡歴した際の紀行歌文集「回国雑記」に見える「大石信濃守といへる武士の館」とされている。ここで言う大石信濃守とは大石顕重のことで、本城は現八王子市の高月城だった。 顕重以後の城址は定かではないが、大永年中(1521〜1525)に修築が行なわれ、本丸(志木第三小学校運動場ほぼ中央)、西の曲輪(長勝院境域)、二の曲輪(志木第三小学校東側脇道に沿った校地の一角)、三の曲輪(志木第三小学校南側一帯の宅地)を備えるに至ったと伝えられる。 その後、大石氏は北条氏康に服属したが、天正のころは、大石越後守直久が城主だった。直久は顕重の曽孫大石定仲の長男で、天正9年(1581)から北条氏の指令に基づき、駿河国獅子浜城の城代となっていた。柏の城が豊臣勢に攻められて落城したのは、武蔵国のほかの諸城と同じ時期の天正18年(1590)。徳川家康が江戸へ入府すると、家臣福山月斎が新しい地頭として、この城地に居住した。 (本曲輪跡説明板より) 【感想】 遺構は残ってはいないが、曲輪の説明板などがあり、城の規模は掴むことができる。ただ城跡は小学校と宅地のためうろうろしていると変に思われそうなので学校が休みである日曜日がまわるのにはよさそうである。 大堀跡もすでに埋められており、想像するしかない。 |
登城日 | 2020年09月20日(日) | ||
LINK | − | |||
城主家紋 | 【銀杏の二葉】 (清和源氏義仲流) 大石氏家紋 |
【本曲輪跡の城址指標】 | 【本曲輪跡の城址指標と説明板】 | 【本曲輪跡】 現志木市立志木第三小学校 |
【二曲輪跡】 | 【三曲輪大堀跡説明板】 この大堀は上幅約12m、底幅1.5〜2.5m、地表面からの深さ約4mを測る大規模な空堀。 |
【三曲輪大堀跡】 |
【西の曲輪跡】 | 【西の曲輪跡説明板】 | 【長勝院旗桜】 |