城名 高坂館(別名:高坂陣屋、高坂城)
住所 〒355-0047
埼玉県東松山市字高済寺834
入場時間
入場料
指定文化財 埼玉県選定重要遺跡
城郭構造
天守構造 なし
築城主 高坂氏
築城年 南北朝時代
主な改修者
主な城主 高坂氏、加賀爪氏
位置 北緯36度00分24.198秒
東経139度24分05.519秒
【歴史・沿革】
高坂館跡は高坂氏の居館として南北朝時代に造られました。近年の発掘調査で、現在地の南にある高坂二番町遺跡(現・子育て支援センターマーレ周辺)から、高坂氏が活躍した時期(14世紀前半)のかわらけや輸入陶磁器が出土し、当時の館の中心はもっと南にあった可能性があります。

現存する土塁や堀は、『鎌倉大日記』に伊勢宗瑞(北条早雲・明応の政変に際し明応3年(1494)に在陣)が、『正法寺文書』に北条氏康(松山城攻めに際し永禄5年(1562)に在陣)が在陣したとの記述があることや、発掘調査で土塁や堀を改修した痕跡が見つかったことから、戦国期に整備されたものと推定されます。

館というよりも、”城”のような規模になっていった「高坂館跡」は、戦国期の激しい動乱を今に伝える貴重な遺跡です。

館の規模は、南北230m、東西170m、土塁頂上部と堀底の比高8m

(「説明板」より)

【感想】
東武東上線高坂駅から徒歩10分程度、住宅街を抜けると立派な土塁が目に飛び込んできます。再調査が行われたのか堀は深くなり土塁も整備されています。館にしてはその規模が大きく驚きます。
都幾川の河岸段丘の端に築かれているため館北側は崖になっています。
高済寺の南側も館跡になっているようですが、高坂二番町遺跡にもなっており、この地域は史跡ではなく遺跡とされています。
周囲は宅地開発が進み遺構は、土塁と堀のみになります。

登城日 2021年02月21日(日)
LINK
城主家紋 【竹の丸に舞雀】
(藤原姓上杉氏後裔)
加賀爪氏家紋

                      

  
探訪

※高坂館跡説明板より
【土塁】 【土塁】 【土塁と堀】
【土塁】 【堀】 土塁】
北側端(崖)】 土塁と堀】 高済寺山門】
高済寺本堂 城山稲荷】 土塁】
【土塁】 【加賀爪氏累代の墓
加賀爪氏は、江戸時代にこの地を1万石で領し陣屋として使用し、元和元年(1615)に家禄断絶された。
土塁から見た都幾川方向
土塁上から見た高済寺墓地】 土塁】 高済寺西側】
高済寺西側】 高済寺下の清水】 高坂上二丁の石橋説明板】
高坂二丁の石橋】 高坂館跡と高坂二番町遺跡説明板】
高坂館南側は、宅地開発されその際の発掘調査により出土し、二番町遺跡がありますが、大半は埋め戻され児童公園の様になっています。
高坂2号墳】



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