城名 川越館(別名:鯨井城、上戸城、川越城、上戸陣所)
住所 〒350-0816
埼玉県川越市上戸194
入場時間 4/1〜9/30 午前9時〜午後6時
10/1〜3/31 午前9時〜午後5時
入場料 無料
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 川越氏
築城年 平安時代末期
主な改修者 川越氏、上杉氏
主な城主 川越氏、上杉顕定、大道寺政繁
位置 北緯35度55分47.7秒
東経139度27分5.5秒
【歴史・沿革】
川越館跡は、平安時代の終わり頃から南北朝時代の中頃までの約200年の間武蔵国で大きな勢力を誇った在地領主の川越氏の居館跡です。
川越氏は、桓武平氏秩父氏の流れを汲む一族で、平安時代の終わり頃、この地に館を構え、川越氏を名乗りました。

治承4年(1180)源頼朝が伊豆で挙兵すると、川越氏は初め敵対しましたが、後に御家人となって平家討伐軍に参戦します。川越重頼は、義母の比企尼が頼朝の乳母であった縁から、娘を頼朝の弟義経に嫁がせ、自らは義経とともに平家討伐に奔走しました。その後、頼朝・義経兄弟が不仲になると、その縁から重頼と長男重房は誅殺され、一度は所領も没収されましたが、間もなく返され、三男重員は失っていた秩父氏の家督を得て、再び御家人として活躍します。鎌倉時代の中頃には、経重が新日吉山王社(日枝神社)に銅鐘を寄進しており、川越氏とこの上戸の地の密接な関係を示します。

鎌倉時代の後半になると、館の中に時宗常楽寺が開山され、川越館は大きく変貌します。後に、時宗15代上人尊恵が訪れ「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書かれた念仏札を配り大勢の人々で賑わうこともあったようです。

応安元年(1368)、突然川越氏や高坂氏ら「平一揆」が川越の館にたてこもって鎌倉府に反旗を翻しますが、あえなく敗れてしまいます。これ以降、川越氏は政治の表舞台からは姿を消し、川越氏と館の関係も閉じることになります。

戦国時代になると、関東管領山内上杉氏が川越城の扇谷上杉氏に対向するために、かつての川越館を含むこの周辺に陣所(上戸陣所)を構えたことが知られます。現在、指定地の西に残る土塁は、その頃の遺構と考えられます。
(説明板より)

【感想】
川越館は国指定史跡に指定され、公園として整備されているが、それはほんの一部で、公園西側には山内上杉氏時代の土塁があり、東側は上戸小学校の敷地で発掘調査はされていないようである。唯一の建屋跡も敷地を跨っているため実際の大きさがわかっていない。
さらに東側には入間川が流れその辺りまで館はあったのではなかろうか。
登城日 2021年09月12日(日)
LINK 川越市HP-国指定史跡川越館跡(史跡公園)−
小江戸川越観光協会HP−川越館跡史跡公園-
川越館-Wikipedia-
城主家紋 【三つ花菱】
(桓武平氏秩父氏流)
川越氏家紋
【竹に二羽飛び雀】
(藤原氏勧修寺流)
山内上杉氏家紋
【揚羽蝶】
(藤原南家後裔)
大道寺氏家紋

                      

  
探訪
【入口】 【入口付近にある説明板】 【川越館跡史跡公園】
【8号堀跡】
川越氏の屋敷地を区画した堀
【8号堀跡】 8号堀跡】
6号井戸跡】 2号掘立柱建物跡】 重なり合った堀跡】
見た目では分からないが、6世紀頃に造られた深さ2.5m〜3m程度の堀(空堀)が重複しており、何度も拡張や掘り直しが行なわれた痕跡が残っています。
川越氏と茶】
実際に茶畑はなかったでしょうが、狭山茶の起源とされる川越茶と成立と振興には川越氏が深く関わっていたと考えられます。
川越館跡公園と説明板】 8号堀跡】
8号堀跡】 塚状遺構】 山内上杉氏の陣所を区画した堀】
舗装された部分が23・26・27・28号堀跡になる。
堀区画の外周を廻る道路】 川越館跡史跡公園外の西側】 山内上杉氏陣所の土塁跡】
【山内上杉氏陣所の土塁跡 山内上杉氏陣所の土塁跡と城址碑】 常楽寺脇の城址碑】
探訪〜常楽寺〜
山門】 仁王門】 本堂】
川越重頼公・京姫・源義経公供養塔】
京姫は重頼の娘で義経の正室
大道寺政繁公供養塔】



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