城名 岩櫃城
住所 〒377-0801
群馬県吾妻郡東吾妻町原町
入場時間
入場料 無料
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 山城
天守構造 不明
築城主 不明
築城年 不明
主な改修者
主な城主 吾妻太郎行盛、斉藤氏、真田氏
位置 北緯36度33分33.秒
東経138度48分17.3秒
続100名城
スタンプ
スタンプ
設置場所
4月1日〜11月30日
 平沢登山口観光案内所
 営業時間 9:00〜16:00
12月1日〜3月31日(冬期のみ)
 東吾妻町観光協会
 営業時間 9:00〜17:00
登城日 2022年4月30日(土)
LINK 東吾妻町観光協会〜岩櫃城パンフレット〜
岩櫃城-Wikipedia
城主家紋  【六つ葉柏】
(藤原北家秀郷流)
岩櫃斉藤氏家紋
   【六文銭】
(滋野氏流海野氏族)
真田氏家紋
【概要】
岩櫃城は、年代は定かではありませんが、南北朝の頃築城されたと考えられます。城郭の規模は136ヘクタールと上州最大規模を誇り、後に甲斐の岩殿城、駿河の久能城と並び武田領内の三名城と称されました。この城の城主として最初に名前が出てくるのが吾妻太郎行盛です。行盛は南北朝時代、南朝方の里見氏に攻められ吾妻川原において自害したという伝説があります。その後行盛の子千王丸(斉藤越前守憲行)が北朝方の上野守護上杉憲顕氏の支援によって岩櫃城を奪還し、その子孫がこの城を本拠として東吾妻を支配しました。

永禄6年(1563)、武田信玄は上州侵略のため、家臣真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。ときの城主は吾妻太郎行盛より数えて6代目の吾妻太郎斉藤越前守憲広(基国)といわれ、堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。こうして岩櫃城は武田氏の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。

天正2年(1574)に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、翌年、長篠の戦いで信綱、昌輝兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたと言われています。天正18年(1590)、北条氏が滅亡し、一度北条氏の支配下に置かれた沼田は再び真田氏の支配下となり、岩櫃城は沼田の支城として吾妻郡統治の中心地としての役割を果しました。

慶長5年(1600)、関ケ原の戦いでは、昌幸(西軍)、信幸(東軍)は敵味方に分かれました。このとき岩櫃城は昌幸の叔父矢沢頼綱が城代となり、信幸方の城となっています。そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した一国一城令(元和元年(1615))により、四百余年の長い歴史を残し、その姿を消しました。
「国指定史跡 真田氏上州の拠点 岩櫃城跡」より


【感想】
スタンプのある平沢登山口観光案内所の最寄り駅は群馬原町駅になります。この駅には駅員がいない(いるのは観光案内所の人)ためSuicaが使用できませんのでご注意ください。この群馬原町駅から徒歩で40分ほど登坂を登って行くと目的の平沢登山観光案内所に着きます。緩やかですが延々と登坂なので結構大変です。
この案内所から岩櫃城へは苦労もなく登れるかと思います。
城の構造自体はそれ程複雑ではないため、城址のみが目的であれば1時間あれば十分見て回れます。岩櫃山の頂上まで行ったりすると時間はそれなり掛かります。
最初は尾根通り、帰りは沢通りを通って行けば良いかと思います。


                      

探訪

※案内案より(加筆有り)
【岩櫃山】 【平沢登山口観光案内所】
ここにスタンプが置いてあります。
【天狗丸跡入口】
平沢登山口観光案内所の対面にあります。
【天狗丸跡】 【岩櫃神社】
天狗丸跡の端にあります。
【登城口(平沢登山口)】
【案内案など】 【分岐点】
左側が尾根通り、直進は沢通りとなり上部で繋がっている。
【中城跡】
上部は岩櫃城の三の丸跡となっている。
【中央の竪堀】 【横堀】 【南の竪堀と腰曲輪】
規模は小さいが幾つもの腰曲輪が点在する。
【南の竪堀(上部)】 【南の竪堀(下部)】 【本丸跡と堀切】
左手が本丸跡、右側が二の丸跡になり、間に堀切がある。
【堀切】 【堀切】 【二の丸土塁】
【二の丸跡】 【二の丸跡】 【本丸へ続く城道】
【本丸跡から見た堀切と二の丸跡】 【本丸跡】
本丸内にある一段高い部分は櫓台跡。
【櫓台跡】
【櫓台跡に建つ城址碑】 【櫓台跡】 【本丸跡】
【腰曲輪】
本丸の下に点在する部分を示している。
【南の竪堀】 【櫓台跡】
【本丸土塁】 【本丸土塁上】 【本丸北枡形虎口】
こちらから沢通りへと入る。
【本丸西北の一の木戸跡】 【志摩小屋(水曲輪)跡】 【北の竪堀】
中城から続く薬研堀と繋がる。




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