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城名 新発田城(別名:菖蒲城、舟形城、浮舟城、狐尾曳ノ城)
住所 〒957-0052
新潟県新発田市大手町6
入場時間 4月1日〜11月30日
午前9時〜午後5時(但し、11月は午後4時30分まで)
入場料 無料
指定文化財 国の重要文化財(表門、旧二の丸隅櫓)
城郭構造 連郭式平城
天守構造 御三階櫓複合式層塔型三重三階(1679年再・非現存)
(木造復元・2004年再)
築城主 新発田氏
築城年 不明(現在残る遺構は江戸期のもの)
主な改修者 溝口秀勝
主な城主 新発田氏、溝口氏
位置 北緯37度57分19.68秒
東経139度19分31.47秒
地図 三階櫓
旧二の丸隅櫓
表門
巽櫓
土橋門跡
100名城
スタンプ
【沿革】
揚北衆の一人、新発田氏も鎌倉時代に加地庄(現在の新発田市付近)に入って土着した。御館の乱当時の当主は新発田長敦で、上杉景勝方として奮闘した。しかし、乱後の戦功報償が満足なものではなく、天正8年(1580)に当主長敦が亡くなって弟の五十公野重家が家督相続すると、新発田氏は上杉景勝に対して不穏な動きを開始する。

重家は、天正9年、越中に侵攻してきた織田信長と結んで上杉景勝に反旗を翻し、ここから7年に及ぶ「新発田重家の乱」が始まった。天正10年6月2日に本能寺の変が起きて重家は孤立状態になる。
天正14年に景勝と秀吉が手を結び、新発田氏の孤立化が進んだ。上杉景勝は、天正15年(1587)夏、秀吉の支援を受け、新発田城攻略に向けて大軍を発し、新発田方の城を一つ一つ攻略した。直江兼続らは新発田氏一門衆の五十公野信宗らが篭る五十公野城を10月13日に攻略して、新発田城の包囲を完成させた。
最後に残った新発田城も10月24日、覚悟を決めた新発田重家らの突撃、自刃をもって陥落し、7年に及んだ新発田重家の乱は終わった。

上杉景勝の会津転封後、越後には堀氏が入封、その与力として加賀大聖寺城から移封された溝口伯耆守秀勝が新発田城主に任じられた。新発田氏の築いた城跡を取り込んで築いたもので、版籍奉還まで約270年間、外様大名溝口氏の居城となってきた。


【感想】
本丸の大半が自衛隊の敷地となっているのが残念である。三階櫓は自衛隊の敷地内であるため許可を得なければ近づけない。
また、大手門跡などを示す看板はあるのだが、場所の表現が曖昧すぎてわかりずらい(看板に向かっていているのかが微妙)のを改善して欲しいと思った。
 
スタンプ
設置場所
新発田城表門受付
登城日 2009年8月8日(土)
LINK 132年の時空を超えて新発田城
(財)新発田市まちづくり振興公社【新発田観光ガイド】
新発田城-Wikipedia
城主家紋 【三つ星】
(宇多源氏佐々木氏加地氏流)
新発田家家紋
【掻摺菱】
(清和源氏武田氏流)
溝口家家紋

その他 国指定名勝
(旧新発田藩下屋敷大名庭園)

                      

探訪
【大手櫓跡】
三の丸南側に位置する二階櫓で、新発田城の正面入り口にあたる大手門を守る重要な櫓。
【大手門跡】
「この場所(正面向かって左斜め奥)」って・・・正面はこの看板なのか?ありえないのでたぶん先の交差点を左行った所と思われる。
築城当初は櫓門のみ設置されていたが寛政7年(1795)の時点では高麗門を併設する枡形門に改められた。
【西櫓跡】
「この場所に(向って右斜め奥)」ってどこまで奥だか・・・
二の丸南西角に位置する二階櫓で大手中ノ門の左右を守る櫓の一つ。
【菅原門跡】
「この場所に(全面道路右側)」ってこの看板を背にして?どっち向いての右側?
多分新発田城に向う側だろうと想定。
三の丸北西に位置し、別名を「鍛冶口門」という。

【新発田城碑と三階櫓】 【三階櫓】
新発田城の特徴である三匹の鯱があるのは、唯一ここだけである。
【三階櫓と堀】
左手壁の向こうは自衛隊の敷地、三階櫓も自衛隊の敷地に建っている。
【旧二の丸隅櫓】(重要文化財)
本来この場所には鉄砲櫓があった。
【旧二の丸隅櫓】

【旧二の丸隅櫓】 【旧二の丸隅櫓の海鼠壁】 【旧二の丸隅櫓1階内部】
【旧二の丸隅櫓2階内部】 【旧二の丸隅櫓2階屋根裏】
【旧二の丸隅櫓2階窓】
【表門】(重要文化財) 【表門】 【表門内部】
【表門石落し】 【巽櫓】(復原) 【巽櫓2階内部】
【本丸】
塀の向こうは自衛隊敷地。
【溝口秀勝公像】 【二の丸跡】
【堀部安兵衛武庸像】
溝口秀勝公の曾孫、忠臣蔵の47士の一人。
【土橋門跡】 【足軽長屋】(重要文化財)
足軽長屋がそのまま残っている。当時の足軽の生活を垣間見ることができる。清水園の正面にある。



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