城名 滝山城
住所 〒192-0002,0004、0003
東京都八王子市高月町、加住町1丁目、丹木町1〜3丁目
入場時間
入場料 無料
指定文化財 国指定史跡
城郭構造 連郭式山城
天守構造 なし
築城主 大石定重
築城年 大永元年(1521)
主な改修者 北条氏照
主な城主 大石定重、大石定久、北条氏照
位置 北緯35度42分7.06秒
東経139度19分41.85秒
【沿革】
滝山城は、武蔵国の守護代大石氏(定重・定久)と小田原北条氏の一族(氏照)の居城であり、規模の大きさ、縄張りの複雑さ、遺構の保存の良さなどからみて、戦国時代の城郭遺構としては日本有数の遺跡である。
永正18年(1521)に大石定重が築城し、高月城から移転したと伝えられており、その後の永禄元年(1558)年前後に定久の養子として入城した北条氏照によって大改修が行われたと考えられている。
浸食の進んだ加住丘陵の一角に占地し、複雑な自然地形を巧みに利用した天然の要害であり、特に北側は多摩川との比高50〜80mの断崖をなしていて、北から侵入する敵に対しては鉄壁の備えとなっている。城内は空堀と土塁によって区画された大小30ばかりの郭群が有機的に配置され、外敵の侵入に備えた心配りは実に見事である。
大石時代には、現在の本丸と呼ばれている主郭を中心として、二の丸と呼ばれている郭付近まであったと考えられており、小宮曲輪などその他の郭群は北条氏照時代に拡張されたものと言われている。
永禄12年(1569)、甲斐の武田信玄が小田原攻略の途中に、二万の兵で本城を囲み、二の丸まで攻め寄せるほどの猛攻を加えたが、城主氏照を中心に城方もよくこれに耐えて守り抜き、落城をまぬがれたという。しかし、この戦闘の後、氏照は武田に備える戦略上の利点から八王子城を築き、天正12〜15(1584〜87)頃に、その虚を移した。

【感想】
二の丸付近の構造の複雑さが際立つ城郭で、馬出が幾重にも連なり、城郭最大の防御施設ということがわかります。北条城郭の特徴でもある大きな堀切も多くあり見どころ満載でした。
100名城
スタンプ
スタンプ
設置場所
・加住市民センター
・滝山城中の丸
・道の駅八王子滝山
登城日 一回目:2009年9月5日(土)
二回目:2020年11月23日(月)
LINK よみがえる滝山城〜多摩に残る戦国時代の城〜
タチオンWalking-滝山城址公園
滝山城-Wikipedia
城主家紋 【銀杏の二葉】
(清和源氏義仲流)
大石家家紋
【三つ鱗】
(伊勢平氏流)
後北条家家紋

                      

探訪

本丸の案内板より(加筆あり)

鳥瞰図
 探訪〜2009年9月5日〜
【勘解由屋敷跡】
寺谷戸の登城道の右側に位置する。
(※少林寺の場所という説あり)
【木橋】
ここからが城域となる。
【木橋下の堀切】
【信濃曲輪】 【信濃曲輪土塁】 【信濃屋敷・刑部屋敷跡碑】
信濃曲輪は少なくとも3つの部分に仕切られていたようです。少なくとも3名の重臣級の屋敷跡と考えられる。
大石氏の中で「信濃守」を名乗ったのは大石定基なのでその屋敷跡と考えられる。
【信濃屋敷・刑部屋敷跡】 【信濃屋敷・刑部屋敷跡の土塁】 【池跡】
信濃屋敷・刑部屋敷の前
【喰違い虎口碑】 【喰違い虎口】
この先は、二の丸になる。
【喰違い虎口の空堀】
東馬出側。
【池跡】
二の丸側より見た池跡。
【弁天池跡にある土塁と空堀】
土塁の左側が弁天池跡、右側が空堀。
【大馬出跡】
【喰違い虎口の空堀】
南馬出側。
南馬出跡】 【千畳敷】
「慶安元年古図」では、中の丸が千畳敷となっているが、現在はこの場所が千畳敷と呼ばれている。銅板表示を東京都により設置されているため。
【三の丸碑】 【三の丸】
北側を走る道路より一段高く構えられた所で、屋根上に突き出したように配置され、間間を深い堀と土塁に囲まれている。北側の中央に出入口と推定される道路が残っている。
【小宮曲輪】
三の丸から車道をはさんだ反対側は小宮曲輪があります。ここには家臣屋敷があり、段差を重ね、土塁を盛って攻めづらくしていました。
【山の神曲輪の土塁】
小宮曲輪から山の神曲輪までは、幅の狭い三つ折れの道になっています。
【山の神曲輪の北端】
東側の下には、棚田状遺構があります。
【二の丸】
喰違い虎口から二の丸方面へ歩くと道を挟んで両側に二の丸があります。写真の一段高い場所が西側の二の丸になる。
【西側の二の丸】
写真右端は道路になっている。
【東側の二の丸】 【堀切】
二の丸と中の丸の間の堀切。
(左側が中の丸、右側が二の丸)
【中の丸の枡形虎口】 【中の丸】 【中の丸碑】
滝山城古図には、この曲輪は千畳敷と記されている。城全体の北側に本丸と対に配置されており、内部は本丸と同様に二段に分かれている。かつては枡形土塁や本丸へ渡る引橋が設置されていた。
【中の丸からの北側眺望】
眼下に多摩川が見える。
【引橋】
本丸側に橋を引かれると本丸に渡ることができない。今は木橋になっている。
【引橋】
【本丸枡形虎口】 【本丸碑】
曲輪は南北二段に分かれ、土塁により囲まれている。
【本丸上段の霞神社】
霞神社の裏には金毘羅社が祀られている。
【本丸】 【本丸井戸跡】 【滝山城跡碑】
【本丸北側の曲輪】 【本丸北側の曲輪の土塁】
多摩川側からの攻めへの備え。

【金毘羅社裏より見た北側曲輪と堀切】
【本丸からの眺望】 【本丸虎口】
堀底へとつながる虎口。
【引橋と大堀切】
【引橋と大堀切】 【引橋碑】 【堀底の広場】
探訪〜2020年11月23日〜
【大手側登城口】 【小宮曲輪の空堀】 【天野坂(大手道)】
現在は消失してしまっているが、小宮曲輪(左側)と三の丸(右側)の間には枡形虎口が設けられていた。
【三の丸跡と空堀】 【三の丸跡から見た天野坂】 【城道】
右側は三の丸跡
【コの字形土橋】
三の丸から千畳敷へと続く城道部分
【コの字形の千畳敷側】 【千畳敷の虎口】
【千畳敷跡】 【千畳敷跡から見た弁天池跡】 【角馬出(西馬出)】
二の丸西側に設けられた馬出
【二の丸跡】 【中の丸南側の防御(櫓門の推定)】 【二の丸と中の丸間の空堀】
【中の丸虎口】 【中の丸跡の説明板】 【中の丸跡】
前方に見える建物にスタンプが設置されている
【中の丸跡からの眺望】
眼下に多摩川が流れている
【中の丸と本丸を繋ぐ木橋(引橋跡)】
中の丸まで攻め込まれた際、本丸側に半分程度橋を引き込むことが出来たと思われる。
【本丸枡形虎口】
【木橋(引橋跡)】 【本丸跡(下段)】 【本丸にある霞神社(本丸上段)】
【本丸跡(上段)】 【本丸からの眺望】 【金毘羅社と本丸上段西側虎口】
【本丸(右側)と出丸(左側)間の堀切】 【出丸の竪堀】 【弁天池跡にある土塁と空堀】
土塁の左側が弁天池跡、右側が空堀。
【本丸下西側付近】 【本丸下南側付近】 【腰曲輪西側付近】
【腰曲輪】
左側が本丸、右側が中の丸
【南側から見た木橋(引橋跡)と大堀切】 【北側から見た木橋(引橋跡)と大堀切】
【東馬出】 【東馬出から二の丸方向を見る】 【信濃曲輪・信濃屋敷跡】
【信濃曲輪・信濃屋敷跡】 【信濃曲輪・刑部屋敷跡】 【谷戸口木橋(引橋跡)】
唯一尾根続きのこの場所は、滝山城の弱点であったと考えられる。そのため、防御は厳重を要した。この橋も「引橋」だったと思われる。橋の下の堀は大池の土手と繋がっており、一大防御線を考えた縄張になっていた。
【二の丸南側の屏風折れ】 【南馬出:行止り曲輪(ふくろのねずみ)】
両端が狭い土橋になっていて行止りの様な形になる。寄せ手側には行止りのからくりだが、城兵からすると格好の馬出となり、実に巧妙な防御が施されている。
【大馬出】
【大馬出の土塁】 【大馬出南側の空堀】 【小宮曲輪跡】
【小宮曲輪跡】 【小宮曲輪枡形虎口(北の備え)】
山の神曲輪方面から小宮曲輪へと攻め進むには、枡形虎口を通過しなければならない。敵は狭い通路で一列縦隊にならざるを得ない。それに対して城兵は、敵の頭上や側面から弓矢、槍、鉄砲で攻撃することが出来る。
【小宮曲輪枡形虎口を北側から見る】
【堀底道】 【山の神曲輪跡】
民の避難場所と推定される
【山の神曲輪からの眺望】



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