powered by 地図Z | 城名 | 高崎城(別名:和田城) | ||
住所 | 〒370-0829 群馬県高崎市高松町1 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | 無料 | |||
指定文化財 | 史跡 | |||
城郭構造 | 輪郭梯郭複合式平城 | |||
天守構造 | 御三階櫓(独立式層塔型3重3階、非現存) | |||
築城主 | 井伊直政 | |||
築城年 | 慶長3年(1598) | |||
主な改修者 | 安藤重信 | |||
主な城主 | 井伊氏、諏訪氏、松平氏、安藤氏 | |||
位置 | 北緯36度19分26.68秒 東経139度0分15.26秒 |
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地図 | 1 | 乾櫓 | ||
2 | 東門 | |||
3 | 三ノ丸外囲土居 | |||
4 | 水堀 | |||
5 | − | |||
【沿革】 天正18年(1590)、北条氏の滅亡によって傘下にあった和田城も落城して、和田氏は亡びたが、その後、和田の地は箕輪の地として支配された。 当時、箕輪城主であった井伊直政は家康の命によって、慶長3年(1598)この和田の廃城跡に城を構え、箕輪から町家や社寺を移して城下町の基礎を築き、地名を高崎と改めて高崎城と共に城下町が誕生した。 和田城は鎌倉初期、和田正信が築いたと言われ、戦国期は和田業繁・信繁父子の拠った和田城は規模も小さく、下之城と並榎の砦の二つの外堡をもっていたが、高崎城ではこれを廃止して城自体の強化につとめた。井伊氏が築城以来の整備の中で、とりわけ高崎城が整ったのは、元和5年(1619)安藤重信着城以来三代77年の間で、城郭は大いに改修されて、この時期にほぼ完成された。現在の遺構は三ノ丸外囲の土居と堀の大部分のみであるが、この高崎城には、県下で唯一の城郭建造物である乾櫓と東門が現存し、明治初期の御三階櫓の写真や、「高崎城大意」、「高崎城断面図」、「御城御土居通、御植物木尺附絵図」ほか、多くの「高崎城之図」等の資料が保存されていおり、これらによって往時をしることができる。 【感想】 遺構があまりないことを知っていたので、三ノ丸外囲の土居が見事な具合で続いていてよかったです。 乾櫓や東門はいいのですが模擬の石垣はいかがなものでしょうか。 |
登城日 | 2009年11月2日(月) | ||
LINK | 高崎市HP | |||
高崎城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【三つ引両に檜扇】 (桓武平氏三浦氏の一族) 和田家家紋 |
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【橘】 (藤原氏冬嗣流) 井伊家家紋 |
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【石持に上り藤】 (阿部仲麻呂後裔) 安藤家家紋 |
【石垣(模擬)】 | 【高崎城跡碑】 | 【石垣(模擬)】 |
【乾櫓】 『高崎城大意』によると、「もとこの櫓こけらふきにて櫓作りになし、二階も無く土蔵などの如くなるを、先の城主腰屋根をつけ櫓に取り立て」とあります。 後に城主安藤重博が現在のように改装したもので、17世紀末頃に建築されたと考えられています。 明治維新後は、下小鳥町に移築され納屋として使用されていたものを、昭和52年現在の位置に復元移築しました。 石垣は模擬。 |
【東門】 もとは追手門(現在の高松郵便局付近)から南約240mにある「出桝形(でますがた)」の北側にあり、通常は扉を開き、城内に出入りする武士や商人などを通行させたいわば通用門でした。 東門も乾櫓と同じように下小鳥町に移築されていたものを、昭和55年現在の場所に復元移築し、高崎市に寄贈されました。 |
【乾櫓と東門】 |
【東門】 | 【乾櫓】 | 【三ノ丸外囲の土居上】 |
【三ノ丸外囲の土居】 | 【三ノ丸外囲土居と堀】 | 【水堀】 |