powered by 地図Z | 城名 | 前橋城(旧名:厩橋城) | ||
住所 | 〒371-0026 群馬県前橋市大手町 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | 無料 | |||
指定文化財 | 史跡 | |||
城郭構造 | 輪郭式平城 | |||
天守構造 | 3重3階(非現存) | |||
築城主 | 長野方業、松平尚克 | |||
築城年 | 15世紀末、文久3年(1863) | |||
主な改修者 | 酒井重忠 | |||
主な城主 | 長野氏、上杉氏、平岩氏、酒井氏、松平氏 | |||
位置 | 北緯36度23分32.54秒 東経139度3分41.69秒 |
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地図 | 1 | 本丸跡 | ||
2 | 二ノ丸跡 | |||
3 | 三ノ丸址 | |||
4 | 前橋城址碑 | |||
5 | 車橋門跡 | |||
【沿革】 −前橋城址碑の説明− 前橋は古くは厩橋といった。東山道の群馬の駅が近く、それが地名の起こりだろうという。 厩橋城が築かれたのは15世紀末頃で、初代城主は箕輪城主長野氏の一族長野佐衛門尉方業(法号固山宗賢)と推定されている。 以後長尾氏らの厩橋衆が拠っていたが、天文21年(1552)小田原北条氏の勢力が上州に及び、永禄3年(1560)には、長尾景虎(上杉謙信)が厩橋城に進出して翌年小田原を攻撃し、関東奪回をはかった。 このあと上杉氏の家臣北条高広が厩橋城を守っていたが、その戦略的な要害が群雄争覇の目標とされ、上杉、北条、武田氏の間に攻防がくりかえされた。 天正10年(1582)武田勝頼が敗死すると、織田信長の武将滝川一益が厩橋城に入って関東管領を称したが、信長の急死によって本国へ帰り、城は北条氏の手中に帰した。 ついで天正18年(1590)4月、小田原征討軍の浅野長政らに攻められて落城した。 同年8月関東に入国した徳川家康は、重臣平岩親吉を厩橋城3万3千石に封じた。 親吉は治政11年をへて、慶長6年(1601)甲府に移り、代って川越から酒井重忠が入封、以後9代150年の間、酒井氏の藩政が続いた。4代忠清は大老となり、下馬将軍の名で知られる。 酒井氏時代の前橋城は城域15万余に及び、西に利根川の断崖を背とし、東南にのびる丘上に郭と濠をめぐらしていた。本丸は西端にあって、ここに三層の天守閣があった。5代忠挙の時、城下は最も栄え公称を前橋と改めたが、その晩年は財政に苦しみ、寛延2年(1749)忠恭の時、姫路に転封となった。 代って姫路から松平朝矩が入封したが、酒井氏時代以来難題であった利根川の激流による城郭の破壊が進み、その修復に苦しんだ松平氏は、幕府に願って明和4年(1767)川越へ移城した。 以後、前橋城は廃され、8万石に近い城付領は約100年の間、川越藩の分領として陣屋支配を受けることとなった。 この間、主を失った城下町は衰え、領民は再三にわたって帰城を請願したが、幕末の藩主直克の決断により、文久3年(1863)12月、幕府から改築の許可を得、慶応3年(1867)3月竣工して帰城が実現した。 この背景には、前橋領の特産生糸貿易の活況に寄せる藩政再建の願いと、生糸商人ら領民の莫大な献金、労力奉仕があった。しかし、わずか半年で大政奉還となった。 廃藩置県後、城郭は廃されたが御殿は残されて県庁舎となり、そのため前橋の町は今日の繁栄をみている。 碑文は、藩主松平直克の再築の功を偲んでこの碑を建てるとある。 この城址碑の位置は、旧城三の丸東南隅の土居上に当たる。 碑の題額は、直克の長子松平直之氏、撰文は修史局編集官、のち東京大学教授、貴族院議員になった重野安繹氏である。書の日下部東作氏は鳴鶴と号し、明治書道界の重鎮である。 昭和58年10月 群馬県 (説明板より) 【感想】 前橋城というよりも厩橋城という名の方がなじみ深いのですが、利根川の浸食により天守の移築など他の場所では考えられないエピソードがある場所です。廃城後も江戸がアメリカやイギリスなど外国によって攻撃された場合利根川を使って逃げ延び、前橋城を江戸城に代わる要塞とする案が浮上したりと知らなかったことが多く歴史的に見て面白い場所です。 城としての遺構は土塁と残念な残され方をしている車橋門跡だけですが土塁は見る価値があるかと思います。 |
登城日 | 2009年11月3日(火) | ||
LINK | 前橋市HP | |||
前橋城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【檜扇】 (在原業平後裔?) 長野家家紋 |
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【一文字に三つ星】 (大江姓毛利氏族) 北条(きたじょう)家家紋 |
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【剣片喰】 (加茂氏族) 酒井家家紋 |
【三ノ丸跡】 現在は裁判所、地方検察庁になっている。 |
【二ノ丸跡】 現在は前橋合同庁舎、前橋市役所になっている。 |
【本丸跡】 今は群馬県庁になっている。この建物は昭和庁舎。 |
【本丸跡】 現在の庁舎。 |
【本丸土塁】 県庁裏に見事な土塁が残っている。 |
【高浜門跡】 現在は県庁・県警本部への入口になっている。 |
【本丸土塁南端】 | 【利根川】 厩橋城から前橋城と改名されたころ、坂東太郎と異名を持つ利根川の浸食により、18世紀初頭には本丸の移転を余儀なくされた。昔の本丸は川の中心付近にあったと考えられる。 |
【虎姫観音堂】 厩橋城 は利根川を天然の堀として、要害の構えを見せていましたが、その流れは急で城域は次第に流失し、城下はすたれてしまいます。人々はこれを厩橋城主にまつわる ゙お虎の怨霊" と考え、この場所に 虎姫 を観世音として祀る堂を建てたそうです。 |
【天守閣推定復原図】 虎姫観音堂の脇にあります。この天守のあった場所、今は川の中です。 |
【前橋公園】 前橋城の外郭にあたる。 |
【前橋城土塁】 前橋公園側の土塁は登ることができますが、公園整備のため改変されています。 |
【前橋城跡の碑入口】 県庁北東の土塁にある。 |
【前橋城跡碑】 碑に書かれている文章は漢文で何が書かれているか不明。この反対側に城址碑の説明が書かれた説明板があるがほとんど消えていて読むことができない。ネットで探し文面がわかったものを沿革に記載している。 |
【三ノ丸緑地】 この緑地の端に城址碑が建つ。 |
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【本丸堀跡】 左の道路自体も堀であった。 |
【車橋門跡】 この門は城の外曲輪から城内に至る重要な門で、対の石積みの台石は1辺7.7m×4.25m、高さ1.4mあります。 前橋藩4代藩主酒井忠清の代に(1637〜1681)に、2本の柱の上に横木を1本置いた冠木門から、櫓の2階を通って門の左右に渡れる渡櫓門に改築され、その後、酒井氏の後を継いだ藩主松平氏が川越へ移城した後もこの門は存続した。 現在の門は、昭和39年区画整理事業により、間隔がせばめられ西側の台石が東へ8m移動されました。 |
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