powered by 地図Z |
城名 | 金山城(別名:新田金山城、太田金山城) | ||
住所 | 〒373-0027 群馬県太田市金山町40-98ほか |
|||
入場時間 | 関連施設 太田市立史跡金山城跡ガイダンス 利用時間:午前9時〜午後5時 休館日 :月曜日、年始年末(12/29〜1/3) |
|||
入場料 | 無料 | |||
指定文化財 | 国指定史跡 | |||
城郭構造 | 連郭式山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 岩松家純 | |||
築城年 | 文明元年(1469) | |||
主な改修者 | 後北条氏 | |||
主な城主 | 岩松氏、由良氏(横瀬氏)、高山定重、宇津木氏久 | |||
位置 | 北緯36度19分4.08秒 東経139度22分38.91秒 |
|||
地図 | 1 | 西城 | ||
2 | 物見矢倉 | |||
3 | 水の手曲輪 | |||
4 | 二ノ丸 | |||
5 | 主曲輪(本丸) | |||
100名城 スタンプ |
||||
【沿革】 今に残る金山城は、岩松(新田)家純が文明元年(1469)に築城したものが基礎となっています。その後、下剋上によって実質的な城主となった横瀬氏改め由良氏の時代に全盛となりました。上杉氏、武田氏、北条氏、佐竹氏など戦国時代の雄に取り囲まれた中、その攻略によく耐え抜いてきたましたが、天正12年(1584)北条氏に捕らわれの身となった城主由良国繁と、その弟長尾顕長(館林城主)の帰還を条件に開城し、北条氏の家臣が城番として配置されました。 天正18年(1590)北条氏の滅亡と共に廃城となりました。江戸時代には金山「御林」として徳川幕府直轄地となり、現在に良好な城跡遺構を遺す結果となっています。 昭和9年(1934)には、歴史的価値の高さと遺構の残存状況が良好なことから、県内では初めて城跡として「史跡」の指定を受けました。廃城後約400年を経過し、遺構の多くが樹木や竹・下草で覆われ、城の面影は失われていましたが、調査の結果、大規模かつ複雑な虎口形態を持っていたことや、さらに曲輪斜面の石垣、石敷通路や土塁石垣など、随所に石を多用しているう山城であったことが明らかになって来ました。往時(中世末)における関東の山城としては極めて珍しい「石垣の城」という様相が明らかとなりつつあります。 【感想】 西城方面から見て回ると突如姿を現す石垣に感動し、さらに進めば大手虎口から先の水の手曲輪、復原された石垣も見事であるがこの曲輪の構造が他の城では見たことがない構造になっていて大手道を進むのが怖くなりさえする。両脇から完全に狙われるのだから。 この水の手曲輪を抜けると御台所址や本丸があるが水の手曲輪と違い昔ながらの雰囲気が残っておりなぜか落ち着いてしまう。特に主曲輪から裏に降りたときに、当時の石垣がそのまま残っているのに感動。どちらかというと復原されたものよりこちらの方が興味がわきました。 そこから帰路に着くのですが歩いて行くと車では見られない石垣もあったりととても満足した一日でした。 |
スタンプ 設置場所 |
中島記念公園(南曲輪)休憩所内 注:スタンプは必ず上下を確認のこと。 |
||
登城日 | 一回目:2009年11月3日(火) 二回目:2014年1月11日(土) |
|||
LINK | 財団法人 群馬県埋蔵文化財調査事業団HP |
|||
太田市HP | ||||
新田太田城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【大中黒】 (清和源氏新田氏流) 岩松家家紋 |
|||
【五三の桐】 (武蔵七党横山氏後裔) 横瀬家家紋のち由良氏と名乗る 【丸に二つ引両】 (清和源氏新田氏流) 由良家家紋 ↓ |
||||
【鶴丸 (桓武平氏秩父氏流) 上州高山家家紋 |
※本丸案内板より(加筆あり) |
||
【金山城全景】 | 【モータープール】 この駐車場を利用すると目の前は西城になります。 |
【西城筋違城門(食違い虎口)】 こちら側(内側)から見ると土塁の裏には堀がある。手前が北土塁で石垣がある。 |
【見附塹壕】 西城筋違城門の北側土塁前の堀。 |
【見附塹壕の北側土塁の石垣】 | 【見附出丸】 金山城の西側を守る最前線。 |
【見附出丸西虎口】 出丸の中に整備はされていない切通しがあります。ここから先に進むともうひとつの曲輪のような平場が見えてきます。 (説明板では見附出丸が最前線と書かれているのですが…) |
【見附出丸下の堀切】 この近くに「大手前塹壕」と書かれた石の案内表示があるのですが、ここは大手ではないはずです。 |
【平場】 この場所になぜか金山城址碑が建っています。ここが本当の意味での最西端の曲輪なのかもしれませんが、説明が一切ありませんでした。 |
【西城】 金山城主要部の一つで本城より西に尾根伝いに行った広い面積の城郭である。西城には、金山城主由良氏の一族である矢田堀領主、泉伊予守が居城していた。そのため、泉氏は西城殿とも呼ばれていた。金山城開城後は西上州の高山遠江守が在城した。 |
【実城入口に建つ城址碑】 | 【旧通路】 西矢倉台西堀切内の通路よりも古い時期に桟道からまっすぐ西へ進む通路。 |
【西矢倉台西堀切】 西城から実城までの間にある4つの堀切のうち、一番西寄りにある堀切です。この堀切は他のと異なり、堀底に石を敷いて通路として利用しており、通路の先は桟道(急斜面に沿って掛けられる通路)へと続いています。また、通路北側には柱穴があり、敵兵の北側からの侵入を防ぐための柵があったと考えられます。堀切を掘り下げる際に出た土や石を土塁状に盛り上げ、堀切内を敵兵から「隠す」ための工夫がなされていたようです。 |
【桟道】 この桟道は、金山城の西を守る「西城」と城の中心部の「実城」とを結ぶ連絡道の一部として造られたものであり、万一、西城が敵に落とされた時はこの桟道を壊して敵の侵入を防ごうとしたと考えられます。 いまは、安全のためにか通行止めとなっています。 |
【西矢倉台下堀切】 この堀切は、断面の形は、上部が逆「ハ」の字であるのに対して、下部は箱状に掘られ、簡単に攻め登られないように工夫されています。また、この堀切は西矢倉台西堀切のように通路としては使われた跡はありません。 当時の堀底はここから1.5m下にありました。 |
【西矢倉台跡】 | 【基壇状石積み】 ここから復原石垣エリアになります。手前が物見櫓下堀切を渡る土橋でここからは基壇状石積みの先は見通せないようになています。ここには門もあったと考えられます。 |
【基壇状石垣の顎石】 |
【物見台下堀切】 | 【物見台】 | 【分岐する通路】 左は竪堀にかかる木橋へ、右は竪堀に降りる階段へ続きます。木橋を渡ると両脇に基壇状石垣がありここにも門があったと考えられます。 |
【木橋下の竪堀】 | 【木橋】 | 【礎石建物址】 |
【掘立建物址】 ここは馬場下の通路となっており、この先は行き止まりとなっている。 |
【大手口馬場址】 この馬場の北側斜面際では、物見台基壇と一体となって造られた幅約1.2mの石塁が約72mの長さで発見されました。この石塁は、北側の長手口からの攻撃に備える防御上の効果があったと考えられます。 |
【木橋と竪堀】 馬場より撮影。 |
【物見台】 物見台の基壇は、自然の地形に沿って等脚台形に造られており、基壇中央から物見矢倉と考えられる柱穴が4本発見されました。また釘や火縄銃の弾丸も出土しています。 現在建っているものは物見矢倉を復元したものではありません。 |
【物見台からの眺望】 この場所から金山城の周囲が良く見渡されるため、上杉謙信は、物見台から死角となる藤阿久へ人を構えたそうです。 |
【物見台からの眺望】 |
【馬場址】 | 【馬場の石塁】 | 【馬場曲輪】 馬場曲輪の調査では岩盤を刳り抜いた柱穴が240個以上見つかり、位置関係から建物や柵列があったことがわかりました。建物も少なくとも5回の建て替えがあったようです。 曲輪の中央部に石組み排水路も整備されています。 |
【馬場曲輪】 | 【馬場曲輪の排水路】 | 【馬場曲輪の石垣】 |
【馬場下曲輪】 | 【発掘中の大手道】 2014.1.11(土)の状況。 |
【大堀切】 敵兵が尾根伝いに進行しているのを防ぐために造られた堀切。長さ約46m、堀幅約15m、深さ約15mと大規模に造られています。この堀底には長さ約7m、高さ約1.5m、幅約1.8mの石積みでできた畝状の防御施設が一ヵ所見つかりました。 |
【月の池】 | 【大手虎口】 大手虎口は、一大防御拠点として、また「城の格」を示す象徴的な場所として、もっとも重要な虎口と言えます。大手虎口は田に地形を利用して築かれ、月の池脇から正面土塁までの大規模な「構え」となっていました。ここには渡櫓門がありました。この一帯を水の手曲輪と言います。 |
【大手虎口北下段曲輪】 |
【大手虎口南上段曲輪・下段曲輪】 上段曲輪には石敷きされた建物の基礎や竈、井戸址が見つかりました。建物の基礎が石敷きされているのは、湿気を防ぐためで、建物のすぐそばには竈が見つかり、建物から火を遠ざけていたと思われます。このことから、建物は火薬などを備蓄した「武器庫」を兼ねた「兵の詰所」だったと考えられます。 |
【井戸址】 | 【竈址】 |
【土塁石垣】 | 【水の手曲輪南側】 | 【水の手曲輪南側】 |
【日の池】 生活用水を確保した場所ではなく、戦勝や雨乞などの祈願を行った儀式の場所であったと考えられます |
【水の手曲輪北側】 | 【南曲輪-休憩所】 ここに100名城のスタンプが置いてあります。 |
【南曲輪にある城址碑】 | 【金山城模型】 | 【南曲輪からの眺望】 天気が良かったので新宿方面まで見ることができました。 |
【南曲輪からの眺望】 富士山も見ることができました。この場所は富士見百景にも選ばれています。 |
【御台所址】 本丸下の曲輪。この辺りに御殿もあったと思われる。 |
【大欅越しの本丸(新田神社)】 |
【本丸址(天主曲輪)】 現在本丸跡には新田神社と御嶽神社があります。 写真は御嶽神社 |
【本丸址(天主曲輪)】 金山城址碑と新田神社。 |
【武者走り】 本丸下東側。 |
【本丸裏馬場】 馬場というが、実際は、馬屋のある廓である。馬は山城でも伝令用として使われたので、馬屋の必要があるが、音に敏感な動物のため、敵の攻撃にさらされないよう、城郭でも静かな裏側に設けられた。ここには馬薬用として「さいかち」が、植えられてある。 |
【本丸石垣】 積み方は、「野面積」で長い石の大きい面を奥に、小さい面を表にしてあるため、別名、「ゴボウ積」とも言われる。断面は、直線的で、緩傾斜し、栗石を充分使用しているために堅固である。 |
【本丸石垣】 |
【本丸堀切】 本丸と二ノ丸との間の堀切。左が本丸、右が二ノ丸になる。 |
【二ノ丸址】 | 【新田神社参道】 |
【腰曲輪】 南曲輪下に位置する。 |
【南木戸入口址】 | 【南木戸石垣】 この場所が実城の最南端になる。 |
【南木戸石垣】 | 【大手口石塁】 金山ガイダンスの向かいに位置し、桜井戸付近から大手門にかけてある。 |
【桜井戸】 中八王子山矢倉台西面の山腹にある。。 |
【太田市史跡金山城跡ガイダンス】 金山城に関する展示がありますので、ぜひ立ち寄ってみてください。 |
【実城入口模型】 | 【水の手曲輪模型】 |
ジャンル:お菓子 店名:有限会社 元祖呑龍 山田屋本店 住所:群馬県太田市金山13-1 TEL:0276-22-3557 定休日などはこちらから↓ URL:http://www.donryu-yamadaya.com/pc/index.html 写真は、焼きまんじゅう2本(1本\150-)です。 まんじゅうと言っても、中に何もなく蒸しパンのようなフカフカとしたものの表面に、味噌だれが塗ってあり、串でさしたもの。味噌の麹の香りが食欲をそそります。金山城からの徒歩で降りてきたのでもうこの匂いはたまりません。 テイクアウト主体のようですが、テーブルがあり、その場で食べられるようです。 テイクアウト時は櫛が抜かれてきます。そして溝は見えますが切れてませんのでw |