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城名 高遠城(別名:兜山城)
住所 〒396-0213
長野県伊那市高遠町東高遠
入場時間 午前8時〜午後5時
(最盛期は午前6時〜午後8時
 ※閉園時間を1時間30分繰上げます)
入場料 花見期間中のみ、
入園料は大人500円、小・中学生250円
(進徳館、絵島囲み屋敷と共通)
指定文化財 国史跡
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 不明
築城年 不明
主な改修者 武田信玄
主な城主 高遠氏、秋山氏、武田氏、仁科氏など
位置 北緯35度49分59.08秒
東経138度3分46.09秒
地図 本丸
太鼓櫓
桜雲橋
伝・大手門
勘助曲輪
100名城
スタンプ
【沿革】
高遠城は、三峰川と藤沢川に削られた河岸段丘の突端に位置しています。段丘上から見れば平城のように見えますが、他の三方から見ると川敷から80mもの高い丘の上にある山城の姿をしているため、一般的に平山城と言われています。
高遠は古くから諏訪氏の勢力圏にあって、南北朝の頃よりその支族である高遠氏が一円を治めていました。しかし、ここが諏訪から伊那へ抜ける交通の要衝であり、南信濃から駿河や遠江に進出するための重要な地点であったことから、天文年間(1532〜1555)に武田信玄の侵略に遭い、その旗下に属しました。高遠を手に入れた信玄は、高遠城の拡張改築を家臣に命じ、天文16年(1547)に「鍬立て」を行っています。この築城に関わったのが山本勘助であると伝えられています。江戸時代には大規模な改修がなされているため、当初信玄が改修した城の姿は分かっていませんが、各曲輪を隔てるためにめぐらされた深い空堀や、城内に残る土塁からは、地形を巧みに利用した戦闘的な城の姿をうかがい知ることができます。武田氏による高遠支配は35年間続きましたが、高遠城が南信州の拠点として重要視されたため、城主は、諏訪(武田)勝頼や仁科五郎盛信など信玄の近親者が就いています。中でも天正10年(1582)、伊那谷に攻め入った織田軍と戦った仁科五郎盛信の姿は後々まで語り継がれ、盛信の流した血は城内に植えられているコヒガンサクラの赤みにもなぞられています。


【感想】
桜で有名な高遠城ですが、城としても各曲輪を深い空堀が囲み見事な縄張りを見せ、空堀は堀底道になっており各曲輪へ繋がっていたりと技巧的な作りになっています。
桜は見事で何も言うことはありません。
 
スタンプ
設置場所
歴史博物館
登城日 2011年4月23日(土)
LINK 伊那市HP
高遠城址公園ガイド
高遠城-Wikipedia
城主家紋 【梶の葉】
(諏訪上社大祝諏訪氏支流)
高遠家家紋
【割菱】
(清和源氏義光流)
甲斐武田家家紋
【揚羽蝶】
(桓武平氏繁盛流)
仁科家家紋
※盛信は割菱を使用

                      

探訪
【勘助曲輪】
武田信玄の命により山本勘助が縄張りをしたと伝えられ、設計者の名をとった曲輪ですが、築城当初この曲輪はなく、大手口を東側から西側に移した際に造成されたものではないかといわれています。現在は駐車場ですが、中央に堀があり、南側が勘助曲輪、北側が武家屋敷となっていました。
【伝・高遠城大手門】
この門は払い下げられた際に、この地にあった高遠高等学校の正門として使用されていた。しかしその形は切り詰められており当時の姿をしていません。
【三ノ丸】
旧高遠高等学校跡。
【大手門跡】
ここが大手に変わったのは、幕藩体制の基盤が揺るぎのないものとなってきた江戸時代の初期といわれている。
この周辺の改変は著しく、往時の様子を窺い知ることはできないが、右手奥に突き出した大きな石垣は、大手枡形の一部と思われ、当時の石造構築物の姿を留める貴重なものである。
【進徳館・門】
国指定史跡の藩校跡。
【進徳館】
【北ゲート手前の土橋と堀】 【高遠閣】 【二ノ丸】
北ゲートを抜けて最初に入る場所。本丸の東から北に廻っている曲輪で、外周は濠によって防備を固めていた。
【井戸跡】
桜雲橋下の堀底へ降りる階段の脇にある。
【池】
桜雲橋下の濠に作られた池。
【桜雲橋】
堀底から見上げた桜雲橋。
【桜雲橋】
二ノ丸から本丸へ入る木橋。
【問屋門】
この門は、高遠城下、本町の問屋役所にあった問屋門です。
【本丸虎口】
【本丸】
【本丸土塁】 【太鼓櫓】
鼓楼は、搦手門の傍らにあった。太鼓櫓後ろには笹曲輪があるがこの時期、入ることが出来なかった。
【新城(盛信)神社・藤原神社】
天正十年(1582)織田の大軍を引き受け、壮烈な最後を遂げた武田信玄の五男、仁科五郎盛信の霊を五郎山より城内に迎え「新城神」と称して祀っている。
【土橋】
本丸と南曲輪を結んでいる。
【堀】
【南曲輪】
本丸の南に位置する曲輪。
【南曲輪からの眺望】 【本丸中村元恒・元起記念碑下の石垣】
多分往時のものではないでしょう。
【法幢院曲輪】
二ノ丸から堀内道で通じていたこの曲輪は、城郭の南端に位置し、曲輪の東方には幅6メートル、長さ百七十メートルの馬場が続いていました。
【白兎橋と堀】
白兎橋は現在南曲輪と法幢院曲輪を結んでいる。
【堀内道】
【模擬天守?】
城址と少し離れた場所に建っている。
【絵島の囲み屋敷】(復元)
絵島事件により遠流となった絵島が病死するまでここで生活をしていた。
【絵島の囲み屋敷】(復元)



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