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※赤線は大体の位置を示しています。
城名 関宿城
住所 〒270-0201
千葉県野田市関宿三軒家
入場時間 午前9時〜午後4時30分(入館は午後4時まで)
休館日:月曜日
入場料 一般200円、大学・高校生100円
指定文化財 なし
城郭構造 平城
天守構造 代替天守:三階櫓(模擬)
築城主 梁田満助
築城年

室町時代

主な改修者 松平康元
主な城主 梁田氏、後北条氏、松平氏、小笠原氏、牧野氏、久世氏
位置 北緯36度5分48.34秒
東経139度46分48.61秒
地図 模擬三階櫓
本丸跡
関宿城址碑
利根川
逆川
【沿革】
関宿城は、古河公方・足利成氏の家臣である簗田成助が、長禄元年(1457)に築城したと言われていますが、永享12年(1440)に勃発した結城合戦では、関東公方・足利持氏の遺児を奉じて結城城に籠城した結城氏朝・持朝父子に呼応して、下河辺一族が関宿城で挙兵したという記録もあります。

関宿城は簗田氏の城でしたが、永禄元年(1558)後北条氏により関宿城を明け渡すこととなり、しばらくは足利氏が入りますが、1562年後北条氏により簗田晴助が、再び関宿城に入りました。
しかし、2年後の永禄7年(1564)の第二次国府台合戦の際、後北条氏は簗田氏に対する圧力を強め、翌永禄8年(1565)、江戸城・岩槻城を拠点に関宿城を攻撃する(第一次関宿合戦)。北条氏康らは城下を焼き払うところまで肉薄したが簗田氏のゲリラ戦の前に敗北し一旦撤退、永禄9年(1566)に足利藤氏が没したこともあり永禄10年(1567)年には一旦和睦しました。

永禄11年(1568)には、北条氏照が野田氏の下総栗橋城を接収、ここを拠点に再び関宿城への攻撃が開始された(第二次関宿合戦)。しかし、武田信玄による駿河侵攻とそれに伴う甲相駿三国同盟の破棄、翌年の相越同盟により、攻撃は中止されました。
簗田氏はこの隙に武田信玄と接近し、身の保全を図りますが、元亀2年(1571)に相越和睦が破棄されると簗田氏は孤立した。

天正元年(1573)に北条氏照が関宿城を夜襲するが失敗、天正2年(1574)には北条氏政・氏照兄弟の二万の兵が関宿城を包囲した(第三次関宿合戦)。簗田氏は上杉氏や佐竹氏に救援を求めるも、とうとう開城し、以後関宿城は後北条氏の城となりました。
天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めにより関宿城は開城し、以後は徳川家の城となりました。
徳川家康は異父弟・松平康元を関宿城に配した。江戸期には利根川水運の要衝として栄えた。幕府重臣に取り立てられるための「出世城」と呼ばれ、久松松平氏、能見松平氏、小笠原・北条・牧野・板倉等の諸氏が目まぐるしく城主の座についた。城主が久世氏の時、明治の廃藩置県で廃城となった。


【感想】
現在は河川整備のためスーパー堤防が築かれてしまい城域はもとより地形も改変され往時の姿を窺うことは難しいが博物館には利根川等の流れの変移を示した資料があるため参考に出来るのが良い。
また、本丸もごく僅かではあるが残っているので見てみる価値はある。

登城日 2011年7月16日(土)
LINK  千葉県立関宿城博物館
 関宿城-Wikipedia
城主家紋 【水葵三本立ち】
(桓武平氏維茂流)
梁田家家紋

                      

探訪
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【蛇籠と舟】 【関宿城模型】 【関宿城本丸跡を望む】
【利根川と逆川の合流点】 【関宿城模擬三階櫓】 【本丸跡】
【関宿城址碑】 【本丸跡から関宿城博物館を望む】



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