powered by 地図Z ※赤線は大体の位置を示しています。 | 城名 | 小高城 | ||
住所 | 〒311-3804 茨城県行方市小高 |
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入場時間 | ー | |||
入場料 | ー | |||
指定文化財 | なし | |||
城郭構造 | 連格式平山城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 小高為幹 | |||
築城年 |
鎌倉時代初期 |
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主な改修者 | ー | |||
主な城主 | 小高氏、佐竹氏 | |||
位置 | 北緯36度02分14.75秒 東経140度28分30.35秒 |
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地図 | 1 | 堀跡 | ||
2 | 三の曲輪 | |||
3 | 二の曲輪 | |||
4 | 一の曲輪 | |||
5 | 物見台 | |||
【沿革】 平安時代末期、常陸大掾氏の一族、吉田忠幹が郡司として行方の地に入り居城を築き、行方平四郎を名乗った。その子景幹(一説宗幹)は源平の戦いにおいて源氏に与し、矢島の戦いで没した。 元歴元年(1184)、その所領は景幹の四子に分与され、長子為幹は行方、二子高幹は島崎、三子家幹は麻生、四子幹政は玉造に進出した。彼等は、それぞれの地名を名字とする地頭として「行方四頭」と呼ばれた。 鎌倉時代初期、行方城主であった為幹はここ小高の地に居城を移し、小高氏を名乗った。その後裔は開発や社領侵略により、次第にその勢力を拡大し小高、南、橋門、井貝から、南高岡、中根、繁昌、吉川まで支配したこともある。 戦国時代末期、十数代数えた小高氏も、佐竹氏の「南方三十三館の仕置」により鹿島・行方地方の諸城館主とともに滅ぼされ、その終焉を迎えた。 小高氏滅亡後、佐竹氏の一門が小高城将として配された。慶長七年(1602)、大山義則が城将のとき、佐竹氏の秋田移封により廃城となった。 【感想】 農道を通り進むと二の曲輪を囲うように堀が巡らされ、その堀底道を進むと畝構造が見られたりします。 意識しないとわからないのが難しいですが。 一の曲輪は土塁に囲まれ北側に伸びた曲輪になっているが、あまりにも広い場所で奥までいかずに引き返した。 今は大半が農耕地になっているが、城域は非常に広い城であることがわかります。 |
登城日 | 2012年3月3日(土) | ||
LINK | ― | |||
城主家紋 | ― | ― |
【四の曲輪】 | 【堀跡】 四の曲輪と三の曲輪の間。 |
【二の曲輪南側堀】 |
【二の曲輪の南側堀】 | 【二の曲輪の東側堀】 この部分に畝構造が見られる。 |
【二の曲輪の東側堀】 |
【二の曲輪の北側堀】 | 【一の曲輪の土塁】 | 【二の曲輪の北側堀】 |
【二の曲輪の西側の堀】 | 【二の郭の西側の堀】 | 【二の曲輪】 |
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【二の曲輪の土塁】 | ― | ― |