powered by 地図Z ※赤線は登城経路ですが大体の位置を示すものです。 |
城名 | 龍岡城(別名:龍岡城五稜郭、桔梗城) | ||
住所 | 〒384-0412 長野県佐久市田口3000 |
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入場時間 | − | |||
入場料 | − | |||
指定文化財 | 国指定史跡 | |||
城郭構造 | 稜堡式 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 松平乗謨(大給乗謨) | |||
築城年 | 1864-1867年 | |||
主な改修者 | なし | |||
主な城主 | 大給松平氏 | |||
位置 | 北緯36度11分45.83秒 東経138度30分5.58秒 |
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地図 | 1 | 大手枡形跡 | ||
2 | 大手門跡 | |||
3 | 黒門跡 | |||
4 | 穴門跡 | |||
5 | 大台所 | |||
【歴史】 信州に一万二千石、三河に四千石の放置を持つ三河奥殿藩の松平氏は、宝永以来60年間、三河に本拠地を持ち、佐久には陣屋を置いて、領内二十二ヶ村の統治を続けてきたが、11代乗謨になって、幕末激動の情勢に応じて信州に居館を移すことを計画し、元治元年(1864)三月着工、慶応三年(1867)竣工、地字名をとって龍岡城と称した。用地一万余坪は田野口村より、石材木材などは領内より献納、総費用四万円余であった。 藩主乗謨は学才識見ともにすぐれ、幕府の陸軍奉行、老中格、陸軍総裁などの要職につき明治に入っては、佐野常民と共に赤十字社の前身である博愛社を創設し、副社長、又賞勲局総裁などを歴任した。 そしてこれより四年前に完成した函館五稜郭址とともに、わが国の城址の中においてただ二つの貴重な洋式城郭である。廃藩後、建物の一部大台所を残している。 注:松平乗謨、田口藩最後の藩主で明治初年大給恒(おぎゅうゆずる)と改姓名。 (大手枡形の説明版より) 【感想】 先に函館五稜郭を見ているのでその規模は雲泥の差で歩いてもすぐ一周できるので是非周囲を周って欲しい。また近くにある田口城址に登ってそこから見下ろすことでその形状が明らかになります。 歴史を見るに、幕府の要職にいることをいいことに作ったようにしか思えませんけど・・・ こんな内陸の山に囲まれた場所に稜堡式意味があるのかと思います。田口城址から砲撃したら壊滅ですよ。 |
登城日 | 2012年12月1日(土) | ||
LINK | 佐久市HP-龍岡城五稜郭 | |||
龍岡城-Wikipedia | ||||
城主家紋 | 【蔦】 松平(大給)氏家紋 |
※説明板より |
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【城址碑と説明板】 | 【大手枡形】 | 【大手枡形】 |
【大手枡形】 | 【稜堡式の角と堀】 | 【石垣と土塁】 |
【城址碑と説明板】 大手門近くにあります。 |
【大手門跡から見た田口城址】 | 【水堀】 堀と石垣の折が稜堡式を物語っている。 |
【土塁】 内側は土塁になっている所がある。 |
【石垣と土塁】 | 【西側の門跡】 |
【水堀】 | 【稜堡式の角部分】 | 【土塁上と水堀】 |
【水堀の区切れ部分】 ここから水堀がなくなっている。 |
【穴門跡】 | 【台所】 唯一源存ずる台所。位置は同じ曲輪内にあったが校庭の端に移設されている。 |
【水堀と黒門前の橋】 | 【水堀がない部分の石垣】 | 【田口城より見た龍岡城】 |