powered by egmap.jp |
城名 | 山上城 | ||
住所 | 〒376-0125 群馬県桐生市新里町山上291 |
|||
入場時間 | − |
|||
入場料 | − | |||
指定文化財 | 群馬県指定文化財 | |||
城郭構造 | 連郭式丘城 | |||
天守構造 | なし | |||
築城主 | 山上高綱 | |||
築城年 | 不明 | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 山上氏 | |||
位置 | 北緯36度25分41秒 東経139度13分39秒 |
|||
地図 | 1 | 本丸跡 | ||
2 | 二ノ丸跡 | |||
3 | 三ノ丸跡 | |||
4 | 北郭 | |||
5 | 横堀 | |||
【歴史】 鎌倉時代に藤原秀郷の後裔とされる土豪(藤姓足利氏)の山上高綱が築城したともいわれるが、築城時期は不明。山上氏は室町時代に関東管領家の山内上杉氏の重臣となり、由良氏、薗田氏、桐生氏とともに東上州の四家として重要な役割を果たした。 弘治元年(1555)、この城は北条氏康の攻撃を受け、城主の山上氏秀(道及)は下野国(栃木県)へ追われて北条方の城となった。以後、この城は北条氏と上杉氏(謙信)の争奪戦が繰り広げられた。この間、一時期、金山城(太田市)の由良国繁の属城となったこともある。天正18年(1590)、北条氏は豊臣秀吉に攻められ滅亡したが、山上城はその後間もなく廃城となった。 城跡は現在、山上城跡公園になっており、鎌倉時代から流行した館作りの本丸を中心として、同様の長方形の郭を組み合わせた南北約650m、東西約220mの細長い形状の丘城である。 北から南へ笹郭・北郭・本丸・二ノ丸・三ノ丸と並び、ふたつの堀切を隔て、高さ約5mの物見台を持つ南郭へ続き、空堀・帯郭・腰郭が渦状に巡っている。更に東の蕨沢川、西の山田川の浸食による谷地が堀の役目を果たしており、巧妙な手法によって築城されていることがわかる。 【感想】 城跡公園になっており広い三ノ丸下には遊具も置かれ家族連れでにぎわっていました。その曲輪を横切り城の西側に行くとこの城の最大の特徴でしょうか、三ノ丸から本丸に渡り一直線の横堀が伸びています。これが西側のみに存在するので、この城の西方に敵がいたということがわかります。 たしかに、この城の目と鼻の先には膳城があります。 |
登城日 | 2014年3月29日(土) | ||
LINK | 桐生市HP-山上城跡公園 | |||
山上氏-Wikipedia | ||||
城主家紋 | − | − |
※山上城要図(群馬県古城累址の研究より) 加筆有り |
||
【模擬櫓】 山上城跡公園の駐車場入口にある。 |
【公園入口に架かる木橋】 | 【山上城縄張図・説明モニュメント】 |
【三ノ丸下段】 | 【三ノ丸跡の井戸跡】 | 【城址西側の横堀】 |
【城址西側の横堀】 | 【横堀と堀切の合流点】 | 【二ノ丸と三ノ丸の堀切】 |
【本丸跡】 | 【本丸跡】 | 【本丸から見た北郭】 |
【山上城址碑】 | 【本丸と北郭間の大堀切跡】 | 【常広寺】 一段低い場所にあるのが定光寺、ここも往時は郭の一つと思われる |
【城址東側上腰郭】 | 【本丸虎口】 二ノ丸の標柱より先が虎口になりその上が本丸となる |
【二ノ丸跡】 |
【二ノ丸虎口】 | 【三ノ丸跡】 | 【三ノ丸跡にあった石組遺構】 何の遺構かは不明 |