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城名 | 白井城 | ||
住所 | 〒377-0204 群馬県渋川市白井581 |
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入場時間 | − |
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入場料 | − | |||
指定文化財 | 群馬県指定史跡 | |||
城郭構造 | 連郭式崖端城 | |||
天守構造 | 不明 | |||
築城主 | 長尾景仲 | |||
築城年 | 15世紀前半 | |||
主な改修者 | − | |||
主な城主 | 白井長尾氏、本多氏 | |||
位置 | 北緯36度30分36.70秒 東経139度0分37.60秒 |
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地図 | 1 | 本丸跡 | ||
2 | 二ノ丸跡 | |||
3 | 三ノ丸跡 | |||
4 | 北郭跡 | |||
5 | 笹郭跡 | |||
【歴史・沿革】 白井城は利根川と吾妻川の合流点に突き出した台地の先端に自然の要害を利用して築かれた城である。全体が三角形に近い構造で、城の中心である本丸は吾妻川沿いにあって西側は断崖に面している。北側には枡形門があり、太田道灌が指導したとの伝承が残る石垣が現存する。本丸を出て深い堀を土橋で渡ると北へ二ノ丸・三ノ丸と続き、その間にも堀が残っている。三ノ丸の外側には北郭・金毘羅郭があり、本丸の南東にはささ郭・南郭・新郭が連なっている。さらに城域の北と東には、それぞれ北遠構・東遠構の堀があって総郭(城下)を囲む構造になっていた。なお城の護りの一部として、玄棟院(宗同宗)・源空寺(浄土宗)をはじめとする大小の寺院が周囲に配置されている。また白井城の南東には仁居谷城があり、堀跡なども確認されていて両者の関係が注目される。 いつ頃築かれたかは諸説あるが、15世紀中頃に関東管領山内上杉憲実の信任が厚かった長尾景仲(昌賢)によって築かれたと考えられる。景仲は月江正文禅師を開山する雙林時(曹洞宗)や「白井の聖堂」と呼ばれる学問所を開いたことでも知られている。その子孫も白井城やその周辺をめぐる戦国の攻防の中にそれぞれの名を残したが、天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家に攻略されて開城し、戦国の城としての役割を終えた。その後は徳川家康の関東入りにしたがい本多広孝・康重が城主(2万石、のち5万石)となり、この頃に現在の姿に整備されたと考えられる。康重の岡崎移封は戸田康長・井伊直孝・西尾忠永・本多紀貞と続くが、寛永元年(1624)紀貞の病没とともに廃城となった。 これ以後の経過は明らかでないが、少なくとも明治時代以降は農地化されていたと思われ、昭和40年代の土地改良事業においても大幅な地形改変はなく、堀や土塁など城としての地形が良く残っている。平成16年3月には本丸部分が子持村の史跡に指定され、保存と活用がはかられていくこととなった。(現在はぐっま県指定史跡) (現地説明板より) 【感想】 駐車場が本丸の中なのでいきなり本丸から周ることになります。本丸は広く隅には櫓跡もありその南側下には笹郭跡があります。本丸の虎口には枡形門跡がありそこには石垣を見ることが出来、その石垣には太田道灌指導の石垣という伝承があるから驚きです。 本丸から見て右手には堀切ではなく三日月堀があるのがとても印象的でした。三日月堀先には帯郭がありそこから三ノ丸の方まで延びる帯郭があり、その横には横堀が延びていることがわかります。城の西側は断崖ですが、東側は人為的に作られた防御施設があり防御に優れているとわかります。 |
登城日 | 2014年3月29日(土) | ||
LINK | 白井城-Wikipedia- | |||
城主家紋 | 【九曜巴】 (桓武平氏良文流) 白井長尾氏家紋 |
※説明板より |
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※説明板より 復元想像図 |
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【本丸跡】 | 【本丸跡】 | 【本丸の櫓跡】 |
【笹郭跡】 | 【本丸虎口の石垣】 太田道灌が指導したと伝承のある石垣 |
【本丸と二ノ丸間の堀切】 |
本丸東側の三日月堀】 | 【本丸東側の三日月堀】 | 【本丸東側の三日月堀】 |
【本丸と帯郭間の横堀】 | 【本丸と帯郭間の横堀】 | 【帯郭】 |
【本丸と帯郭間の横堀】 | 【本丸と二ノ丸間の堀切】 | 【帯郭】 左側は二ノ丸と帯郭間の横堀 |
【帯郭】 本丸から三ノ丸脇の方まで続いている |
【神明宮】 帯郭の突当りに位置する |
【横堀に築かれた土橋と二ノ丸と三ノ丸間の堀切】 |
【二ノ丸と三ノ丸間の堀切】 | 【二ノ丸と三ノ丸間の堀切と土橋】 | 【三ノ丸跡】 |
【二ノ丸と三ノ丸間の西側堀切】 | 【二ノ丸跡】 | 【本丸へと続く土橋跡】 |