城名 難波田城(別名:難波田氏館、南畑城)
住所 〒354-0004
埼玉県富士見市大字下南畑568-1
入場時間 難波田城資料館・古民家
開館時間:午前9時〜午後5時
休館日:月曜日(祝日を除く)、祝日の翌日(土日、祝日を除く)、年末年始

難波田城公園
開園時間:午前9時〜午後6時(4/1〜9/30)
     午前9時〜午後5時(10/1〜3/31)
休園日:無休
入場料 無料
指定文化財 埼玉県指定史跡
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 難波田高範
築城年 鎌倉時代
主な改修者 上田氏
主な城主 難波田氏、上田氏
位置 北緯35度51分30秒
東経139度34分03秒
地図 曲輪1
曲輪2(馬出)
曲輪3
曲輪4
追手門(模擬)
【歴史・沿革】
平安時代の終わり頃から、武蔵国には「武蔵七党」と呼ばれる武士団が活動していました。その一つの村山党の中心に、金子氏がいました。金子小太郎高範は、鎌倉時代の承久の乱に参戦して討死しました。その恩賞として幕府から、高範の子孫に難波田(南畑)の地が与えられ、その子孫が「難波田氏」を名乗るようになりました。

南北朝時代には、羽袮蔵(はねくら)合戦で高麗経済(こまつねすみ)の軍勢と戦って敗れましたが、戦国時代になると難波田弾正善銀(ぜんぎん)が扇谷上杉氏の重臣として活躍しました。しかし、天文15年(1546)の川越夜戦で北条氏と戦い、敗れて討ち死にしました。その後、難波田氏一族は北条氏の家臣となり、難波田の土地は北条氏の家臣上田氏が支配しました。しかし、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされたために難波田城は廃城となりました。

難波田城は江戸時代に作られた絵図などに描かれています。城は最初小さなものでしたが、戦国時代に難波田弾正善銀が活躍する頃に、大規模に改造されたと考えられます。江戸時代には、城跡に修験寺院の十玉院が建てられました。


【感想】
城址は難波田城公園内、城跡ゾーン側にあります。中世の城のはずですが、今はすっかり整備されその面影は殆どありません。あまりにも整備しすぎていてこれが正しいものなのかよくわかりません。資料館の模型などを見て比べるとなんとなくわかりますが、曲輪1の北側は住宅街になっており半分は宅地になってしまっています。


登城日 2015年01月10日(土)
LINK  富士見市HP-難波田城公園-
Wikipedia〜難波田城〜
城主家紋

                      

  
探訪

※公園案内図より

※模型前の縄張図より
【難波田城資料館】 【難波田城模型】 【曲輪4】
【内堀】 【追手門(模擬復元)】 【菖蒲田】
こちら側が中堀・外堀跡となる。
【食違い虎口】 【曲輪3】 【内堀跡】
【東門(模擬冠木門)】
本来この場所には門がなく中堀になる。
【城址説明板】
東門の外に設置されている。
【内堀と曲輪3方向】
【復元木橋】 【復元木橋】 【曲輪2(馬出跡)】
【模擬木橋と模擬冠木門】
本来この間には内堀が大きくあるはずなのだが…
【曲輪1】
実際はこの箇所は内堀跡と思われる。そのため本来の曲輪1の大部分は住宅街になってしまっているのであろう。
【城址碑】
【難波田直次郎の墓】
この人が誰なのか説明もなくネットで調べてもわかりませんでした。
【内堀】 【十玉院墓】
十玉院は中世に栄えた修験道寺院で戦国時代に一時衰えたが、江戸時代初期難波田氏の縁者という理由から、幕府が難波田城跡に移転再興を許可した。この墓地は十玉院代々の院主やその関係者のものである。明治5年(1872)の修験道廃止によって十玉院は廃寺となった。 院主上田氏はその後埼玉県議員等で活躍した。
(現地説明板より)
観光-古民家ゾーン-
【難波田城公園入口】
ここより入ってすぐが古民家ゾーンとなっている。
【旧鈴木家表門】 【旧大澤家住宅】
【旧大澤家住宅】 【旧大澤家住宅】 【旧大澤家住宅】
【旧大澤家住宅】 【旧大澤家住宅】



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